ハンス・ドルテンマン(Hans Dortenmann):Fw190D-9を駆った「本物の」エース
この人のことは、前々からずっと、ずーーーーっと書きたいと思っていた。
なんせ彼は筆者の一番好きな機体の一つである「フォッケウルフ:ドーラ9(Fw190D-9)」に乗っていたエースである。
しかし、日本人には悲しいほどマイナーな人物であることも事実・・・っ!
彼の活躍を記した日本語ブログはどんどん消滅しつつある危機感もあるし、「ハンス・ドルテンマン」の名が出てくるサイトといえば、基本は海外サイトか、せいぜいプラモの塗装例で彼の名前と業績がほんの少し紹介される程度ではないだろうか。
ハンス・ドルテンマンは、ドイツ空軍のパイロットとして終戦まで生き残り、最終的に39機の撃墜数を記録している。
エースパイロットの基準は「5機の撃墜」だし、彼も十分立派に「エース」を名乗れる人物ではあるのだが、なにぶんドイツには撃墜200機、300機みたいなスーパーエースがおり、100機超え程度なら割とたくさんいるという修羅の国。
なので彼の撃墜数は、ドイツ空軍のスコアとしてはハッキリ言って平凡そのものかも知れない。
だが敢えて・・・敢えて言おう。
この「ハンス・ドルテンマン」こそは、
末期ドイツ空軍において「数少ない」、
そして「本物の」エースパイロットの一人であったと・・・!
ハンス・ドルテンマンの主な活躍
(https://en.wikipedia.org/wiki/File:Hans_Dortenmann.jpgより。ハンス・ドルテンマンの写真。ヒゲをたくわえており、なかなかダンディーなオジサマである。※なお当時20代前半)
さて、それではまず全盛期のイチロー構文的な感じで、この「ハンス・ドルテンマン」の凄さをまとめてみよう。
- 彼はもともと歩兵であり、空軍パイロットとして東部戦線に送られたのは戦局が完全に不利になった時期から。それでもバシバシ戦果を挙げる天才。
- Fw190A型に乗っていた東部戦線時代、敵機との接触事故で死にかけたことはあるが、こちらでもほぼ撃墜されることなく15機の撃墜を記録。
- Fw190D-9型に乗り換えてからは一度も被撃墜なし。ずっと同じ愛機(製造番号W/nr210003)で終戦まで戦い抜く。
- 撃墜スコア38機のうち、半分は西部戦線。特に「ドーラ9」に乗り換えてからの戦果はかのP51を6機を含む18機であり、これは同機種に乗ったエースの中ではトップ。
- 「P51キラー」であると同時に「テンペストキラー」としても恐れられていたとされる。(JG26の元隊長の証言)
- ロベルト・ヴァイスをはじめ多くのパイロットが戦死し、JG54が壊滅したきっかけとなった1944年末~年明けの戦いでもしぶとく生き残り、JG26へ転属。終戦まで常に出撃して戦果を挙げる。
- 無謀な命令を無視して軍法会議にかけられるが、事情を察した上層部から評価され、かえって昇進。
- Bf109部隊の交戦に巻き込まれ、上下を敵機に囲まれるも、僚機とともに直下のP51編隊に奇襲を仕掛けて撃墜・もちろん生き残る。
- 僚機が自分を認識しやすいよう垂直尾翼を黄色に塗る、また部下のためなら軍令違反の汚名を被ることも辞さない、頼れる隊長。
- 敵機は目いっぱい近づいての射撃で撃ち落とす大胆不敵さ、指揮官としては即断即決、慎重さをも兼ね備えた男。
- ホーカーテンペストのエースであるピエール・クロステルマンの自著にも彼らしきパイロットが登場。クロステルマンに奇襲とエネルギー戦を仕掛けて手玉に取り、これを撃墜。(クロステルマンの語った敵機の特徴などから彼の可能性が最も高い)※
- 敗戦後は、終戦まで戦い抜いた愛機を処分してキャリアを終える。
- 戦後は起業家へ転身。第二の人生を歩む。
※ソースは以下の翻訳サイト。一応海外サイトなども読んだけど、どこだったかは忘れた。こちらは何分昔のサイトでいつ消えるか分からないので注意。
・・・と、(ドイツのトップエース達に比べて)撃墜数こそ少ないものの、その経歴や事績を考えると。
ドルテンマンはかなり優れた空戦センス、そして抜群の判断力・生存能力の持ち主であり、活躍時期が遅かったとはいえその才能はドイツ軍のトップエース達にも引けは取らなかったのではないだろうか。
Fw190D-9「真の」エース
特に、個人的には
- 「終戦間際の、空に飛びあがれば血眼になって残党狩りをしている連合軍機に襲われ、まともなパイロットなら生き残ることすら難しい状況下で」
- 「昨今、実態がイマイチ不明とされることも多いFw190D-9を駆り、18機の撃墜を挙げた」
というところが筆者のイチオシポイントである。
「ドーラ9に乗ったエースは誰か?」という問いを日本人に振ると、皆は誰を思い浮かべるだろうか。
多くの人は「JV44オウム中隊で、赤腹ドーラに乗ったハインツ・ザクセンベルク」だとか、あるいは有名な200機超えエースである「ゲルハルト・バルクホルン」などを思い浮かべることだろう。
また、ちょっとひねくれた人は、ちょっとだけD-9への搭乗経験のある「ルーデル閣下」を挙げるかもしれない。
だが、そういう人は何も分かってない。
分かっていないのだ。
彼らが素晴らしいパイロットであることは否定しないが、彼らは「真のドーラ・エース」ではない。
彼らが挙げた戦果は、ほとんどが他機種(Bf109やFw190A型)によるもの、かつまだドイツ空軍が元気だった第二次大戦前半に記録されたものである。
またこれはドイツ軍のエースの多くに言えることだが・・・
出てくる敵機の数も性能差も不利ではなかった時期であればバリバリ戦果を挙げていた彼らも、大戦末期になるとどうにも伸び悩む・・・というケースがかなり多い。
(特に、東部戦線ではパイロットの練度も機材も微妙だったソ連空軍相手に稼ぎまくったパイロットも多かっただろう。)
実際、彼らはフォッケD-9に乗り換えてもほとんど、あるいは全くと言ってよいほど戦果を挙げていない。
だが、ドルテンマンは
「ドーラ9のみで18機の戦果を記録し」
「敵はP51やらスピット後期型やらテンペストやら大戦末期の高性能機ばかり、しかも味方の数も練度も基本不利な状況で」
「被撃墜ゼロのまま生き残った」
という、「ドーラ9の」「真のエース」であり・・・
大げさに言えば「ドイツ空軍最後のエース」と言っても過言ではない人物なのである。
※実際、彼はJG26で騎士鉄十字章を受けた最後のパイロットとなった。
・・・だが悲しいかな。
ほんっっっとに、彼は日本での知名度がない・・・。
アニメ「ストライクウィッチーズ」には、バルクホルンをモデルにした人物が「Fw190D-6」というユニットを乗り回していたが、
その役には本来ドルテンマンが配置されるべきなのだとすら思う。(力説)
実は陸軍出身だったドルテンマン
さて、彼について語りたいことは色々あるのだが・・・
まずは、彼のキャリアの中で非常に特殊な経歴を紹介しておこう。
面白いことに、もともとドルテンマンは陸軍所属。
第215歩兵師団第390歩兵連隊第1中隊に配属されたごく平凡な一歩兵だった。
彼がそのまま歩兵として戦っていたら、どこかの土地で名も残らない最期を遂げていたかも知れない。
が、ドルテンマンは休暇中の狩猟で事故ったせいで走り回るのが困難になり、まだ足の負担の少ない空軍パイロットに転属したおかげでエースとして名を挙げた。
まさに「人間万事塞翁が馬」を体現したような男である・・・。
彼がパイロットになった当初は20代前半であったが、少年時代から訓練を受けて空で過ごしたようなエリートパイロットからすれば「新参者」であった。
妄想だが、中には「陸軍上がりが」と彼をバカにしていた人間がいてもおかしくはない。
が、彼は天才だった。
あるいは、家業の狩りが空戦と似通っていて、その才能を自然と磨いたのであろうか。
パイロットになってからのドルテンマンは、100機超えのエースですらバタバタと死んでいく大戦末期のVERY HARDモードと化したドイツ空軍において大奮戦するのである。
東部戦線でLa5やYak9と戦う
ドルテンマンが戦闘機乗りとして最初に戦ったのは東部戦線。
ソ連軍が相手であった。
当時はFw190A型に乗っていた彼がパイロットとして戦地に赴いた1943年は、既にドイツがスターリングラードの戦いに敗北し、ずるずると後退していた時期。
某祖国の同志の軍人大粛清のせいで当初は「弱い」とドイツ兵に馬鹿にされていたソ連軍だが、冬将軍の到来やチョビヒゲ総統閣下の作戦ミス、ソ連軍のスターリングラードに追い詰められてからの共産主義パワー驚異的な粘りもあってドイツ軍を苦戦させていた。
当初はドイツ兵に「ポーランド軍より弱い」とすら言われたほどヘッポコだった彼らも次第に戦慣れし、ついにスターリングラードからドイツを撤退させることに成功したのだ。
また、開戦当初は粗悪品だらけだった※とされるソ連空軍も、Yak9やLa5などの高性能な新型国産戦闘機を開発、次々と戦場に送り出し始めていた頃だった。
※米英ではイマイチと評されたP39が、大戦初期にまともな機体のなかったソ連で大活躍したのは有名な話
ドルテンマンが最初に撃墜したのはソ連のLa5であったが、空戦中に敵機と接触して片翼端を失い、命からがら不時着するという経験もしている。惑星warthunderの日常
だがその後はめきめきと頭角を表し、東部戦線だけでも1944年までに15機を撃墜。
とはいえ、個々のパイロットがいくら頑張ったところで悪化する戦況はどうにもならず、のちにJG54は戦況の悪化により西部戦線で対米英軍に回されることになる。
https://www.cranstonfinearts.com/aces.php?PilotID=1385
そこでさらにP51一機を含む6機の撃墜を記録。
低空に特化したソ連機より高高度性能に優れ、東部戦線での戦い方が通用しない米英機相手でも即座に対応して渡り合える実力を、ドルテンマンは示したのである。
愛機(W/nr210003)との出会い
(画像はhttps://www.asisbiz.com/より引用。:JG54時代、Fw190D-9※の操縦席に乗り込むドルテンマン。先の写真のダンディーな感じとは打って変わって、どこかすっとぼけたような愛嬌ある表情である。
※全体は見えないが、A型にはない操縦席側面の補強板などの特徴から多分D型だろう。後部のスライド式キャノピーも、丸っこい「ガーランド・ハウベ」と呼ばれるタイプにアップグレードされているのが分かる。(D-9はA型と同じ直線的な通常型キャノピーを搭載したものもある)
ドルテンマンが在籍していたJG54は、A型後継機もTa152も一向に完成しないもんで半ばやっつけで製造された新型機であるFw190D-9を受領した最初の部隊であった。
ドルテンマンの愛機は製造番号W/nr210003の、D9の中でもかなり初期に生産された型であったという。
(初期生産スロットなので、水メタノールによる出力増強装置であるMW50すら搭載されていなかった可能性もある。それはそれで凄いが・・・)
彼がドーラ9で最初に記録した撃墜はおそらく11月2日(D9の配備が1944年9月)であり、相手はB17であった。
その直後、11月6日には早速P51を撃墜している。(P51といっても色々型があるが、この時代ならほとんどがマーリンエンジン搭載により性能全盛期を迎えたB、C、D型であろう。)
Fw190D-9は、様々な研究により最近では「性能はA型より多少上がったが、同時代の連合軍機に比べて劣る」という評価が定着しつつある。
中には、「余った水冷エンジンを突っ込んだだけの機体」などと、かなり強い調子でコキ下ろす人もいた。
しかし、ドルテンマンはその微妙なフォッケウルフD-9型で「最優秀機」ことP51を5機も撃墜しているのはなかなか興味深い。
「P51キラー」でもあったドルテンマンの印象的な戦いの一つが、米軍にとっては「最も大きな空戦の勝利の一つ」とされる1945 年 3 月 19 日の空戦であろう。
参考:
https://www.starduststudios.com/hans-dortenmann.html
この戦いでは、パトロールから帰還中、友軍であるJG27のメッサーシュミットBf109と、米陸軍航空隊第78戦闘団のP51との戦闘に巻き込まれてしまう。
ドルテンマン達はP51によって上下を敵に囲まれるも、僚機とともに下にいるP51の一機に突撃、彼が得意としたギリギリまで近づいてからの近接射撃で見事撃墜する様子が記録されている。
さらにこの日、ドルテンマンはこの戦果も含めてP51を2機撃墜している。
※なおこの空戦の結果自体は散々で、ドイツ側の記録でFw190を4機、Bf109を14機失うという大敗を喫している。多勢に無勢・・・。
日本軍でも、性能(特に当時の空戦では最重要な速度性能)の劣る機体で大戦末期の米軍機を相手に奮戦したパイロットは多数存在する。
だが、速度差がそんなにないF6Fならともかく、日本パイロットが苦手とする高速戦を得意としたP-51を5機も撃墜したパイロットはなかなかいない。
このドルテンマンに匹敵、ないし凌駕する「マスタングキラー」と言えば、「四式戦疾風」に乗り、「赤子の手を捻るがごとく」P51を撃墜しまくった若松幸禧氏(諸説あるが、P51を8機以上撃墜したとも)くらいではなかろうか。
また、枢軸国にとって「分かりやすい強敵」としてP51を比較対象に挙げたが、ドルテンマンはその他、P47や英国のスピットファイア、ホーカーテンペストなど、いずれも劣らぬ連合の主力戦闘機を多数落としている。
終戦間際にはソ連も東からドイツ本土に迫ってきたが、そのついでとばかりに「顎のないYakには気を付けろ」とドイツパイロットに恐れられたYak3を撃墜している。
(惑星warthunderだと恐ろしい上昇力でドイツ機の急上昇にもついてくるやべー奴)
昔の書籍やwikiなどには「D-9型は、熟練パイロットが乗れば連合軍の最新鋭機とも互角に渡り合えた」と書かれているが、その評価の半分くらいはこのドルテンマンの大活躍によるものかも知れない。
バルクホルンなどの有名エースもD-9に乗ったことがあるが、慣熟訓練の不足や本人の疲労などもあり、撃墜記録が全くないケースが大半でガッカリすることが多い。
しかし、ドルテンマンは正真正銘、Fw190DD-9に乗って連合軍の最新鋭戦闘機と立派に渡り合って見せたのだ。
A型に乗ってた時の戦果も大概やべぇのだが。
ドルテンマン、ヴァルター・ノヴォトニーの最期に立ち会う
彼の愛機だったFw190D-9は、ジェット戦闘機Me262の直掩に用いられたことでも知られる。
飛び上がって速度が乗ればほぼ無敵だったMe262だが、エンジン性能の限界で加速が弱く、離着陸時を狙われればひとたまりもない。
そこで離着陸をカバーする戦闘機が必要だったわけである。
護衛戦闘機が必要な戦闘機ってどこかで聞いたな・・・ね?駆逐機さん!
実際、当時JG54にいたドルテンマンもそういった任務に出撃したことは何度かあった。
ある日、筆者が実家にあるMe262の本を久々に読んでいると、たまたま「ドルテンマン」の名前を見つける機会があった。なんというめぐり合わせ!
するとドルテンマンは、ドイツ空軍のトップエースの一人で258機を撃墜した「ヴァルター・ノヴォトニー」の最期に立ち会っていた一人であったことが判明した。(JG54の先輩なので当然ではあるが)
https://www.yodobashi.com/product/100000009001221575/
※表紙は実家にある本と違うが、タイトル的には多分これ。
ただし、その時はノヴォトニーから地上待機を命じられており、出撃はしていなかった。ドルテンマンはD-9のコクピットで彼の最期の無線を聞いたのみであったという。
ちなみに、その日は空軍戦闘機隊総監であるアドルフ・ガーランドも基地へ訪れており、そういった中での不幸だった。
JG54の危機:暗黒の金曜日
ドルテンマンは決して、楽な戦い&有利な状況で運よく生き残っていたわけではない。
(そもそもどのドイツパイロットにとってもそんな戦況ではなかっただろうが)
彼は最初JG54に在籍していたが、1944年末からの「ラインの護り」作戦で同部隊が壊滅するなどの修羅場をいくつも潜り抜けてきているし、JG26に移籍したのも、同作戦が失敗に終わり、JG54が壊滅してJG26に統合されたからだ。
なお、彼はJG54時代、この戦いの中で起こした「命令違反」により、危うく処罰されそうになったという逸話が残る。
時は1944 年 12 月 29 日・・・。
この日の戦いは、ポーランド戦役、バトルオブブリテン、そして独ソ戦初期から戦い続けた歴戦揃いの「JG54」が、一度に12名もの貴重なパイロットを失い、「暗黒の金曜日」と評されるほどの過酷な戦いだった。
※なお、この日は「ラインの護り」作戦の真っただ中で、この数日後の元旦には無謀な「ボーデンプラッテ作戦」でさらに多くのパイロットを失うことになる。
以下、筆者の微妙な英語力(とGoogle先生の翻訳力)から大まかにまとめた経緯である。
http://luftwaffeinprofile.se/JG%2054%20Black%20Day.html
この日はJG26との合同作戦であったが、即席の合同作戦で指揮系統が混乱したのか、高高度に敵がウヨウヨいる空域に、あろうことか不利な低空で戦闘機隊を小分けに逐次投入して低空の敵戦闘爆撃機を攻撃するという、とんでもなく無謀な作戦が決行された。
むろん、本来は高高度からの一撃離脱が得意なドイツ軍は十分に力を発揮できず、非常に危険が大きい。
案の定、その上空では高高度で待ち構える英空軍のスピットファイアが網を張っており、低空の戦闘爆撃機(タイフーン)は半ば囮も兼ねている。
低空侵入したJG54の戦闘機隊は、待ち伏せしていたスピットファイアによって各個撃破されていき、無線から流れてくる声は阿鼻叫喚であったという。
ドルテンマン達にも「第三波として戦闘空域へ向かうように」との命令があった。
※この命令を下した上官とその部隊は、戦闘空域をウロウロと旋回していたところをスピットファイア隊の奇襲をモロに受けて壊滅させられている。
だが、ドルテンマンは断片的に流れてくる無線などから情報を分析し、
- 「そこへ向かった味方はことごとく返り討ちに遭っている」
- 「よって、ノコノコと自分たちが突っ込めばまた敵に待ち伏せされて、同じ轍を踏む。命令に従えば自殺行為になるのは目に見えている」
・・・と判断。
結果、命令とは逆に高度を取ることを決断する。
彼の懸念通り、先に交戦した部隊はことごとく壊滅しており、目標地点では敵機が上空で網を張って待ち構えていたのだった。
彼の編隊は同高度域で10機以上のスピットファイアに遭遇。最終的にドルテンマンの隊にも2機の被害こそあったが、ドルテンマン自身はスピットファイア1機を撃墜、彼の僚機の戦果も合わせると合計3機を撃墜して何とか生還する。
この日のJG54の戦闘で、唯一撃墜数が被撃墜数を上回り、かつ損害を最小限に抑えたのは彼の隊のみであった。
しかし彼が先に犯した命令無視、そして結果的に彼から見捨てられる形となった部隊からの訴えによって、軍法会議になりかけたのである。
・・・だが、末期のドイツ空軍もこういった戦況を理解できないボンクラばかりではなかったらしい。
彼の判断のおかげで生き残れた僚機の証言もあったのか、はたまた彼に目をかけていた上官がいたのか。
ドルテンマンはかえって戦死したロベルト・ヴァイスに代わりIII./JG 54 の代理隊長(?)に任命される。
しかし、ドイツ軍最後の攻勢ともいえる「ラインの護り(バルジの戦い)」と呼ばれるこの一連の戦いで、JG54は先に述べた通りロベルト・ヴァイスはじめ多くのベテランが戦死してしまう。
特に「100機超えエース」の一人でもあったヴァイスは、ノヴォトニー亡き後のJG54の大黒柱ともいうべき人物であった。
多くのパイロットを失い、部隊を維持できなくなったJG54の一部はのちにJG26に吸収されることとなるのだが、それはまた別のお話・・・。
だが、いずれにせよドルテンマンはこういった過酷な戦いでも生き残る技量(しれっと撃墜スコアも伸ばしてるし)、そして、たとえ命令違反になろうとも最善の判断を下せる決断力と度胸の持ち主であったと言えるだろう。
ピエール・クロステルマンとの対決に関する伝説
ソースは同じく以下の翻訳サイトより。
もう一つ・・・諸説はあるものの、彼に関する逸話として、
「1945年4月、フランス人のテンペストエースであるピエール・クロステルマンと対決し、これに勝利した」
というものが存在する。
ドルテンマンが1970年代に亡くなってしまったために彼自身のはっきりした証言が得られなかったのは残念だが、クロステルマンの自伝・『LE GRAND CIRQUE』(邦題・『撃墜王』)に彼らしきパイロットが登場し、クロステルマンに一杯食わせた・・・という内容がある。
時は1945年4月21日・・・※
※件の翻訳サイトにおけるクロステルマン氏の日記では日付が「22日」となっているが、これは生還後に書いた日記であるためであろう。
その日、Fw190D-9による奇襲を受けて僚機を撃墜されたクロステルマンは、怒り狂ってそのD-9を追いかけるが、そのD-9のパイロットはダイブと急上昇を絡めた巧みなエネルギー戦でクロステルマンを翻弄。
急な引き起こしで敵機を見失ったクロステルマン機の背後に回り込んでこれを撃墜し、不時着して機外に降りたクロステルマンをそれ以上攻撃することもなく、別れの敬礼に翼を振って飛び去った・・・という。
そして、クロステルマンはそのD-9の黄色に塗られた垂直尾翼と、渦巻き型のスピナーを目に焼き付けた・・・(一応、JG26時代のドルテンマン機の特徴と一致する)
・・・なんともクールな敵キャラではありませんか。
戦後はるか未来、1996年に戦中パイロットの交流会に参加したクロステルマンは、偶然JG26/Ⅶの隊長だったヴェルナー・モルヒ氏(原文ママ)と出会い、この時自分を撃墜したパイロットについて話した。
その結果、彼が語った機体の特徴などから3人の候補が見つかり、撃墜記録などとも照らし合わせた結果、その最有力候補が同じく当時JG26にいたドルテンマンだったのだ。
※クロステルマンの自伝によると、その日ドルテンマンは「スピットファイア」の撃墜を報告している(これは筆者もドルテンマンの撃墜記録を漁って裏は取った)。
だが、クロステルマンは「自分の乗機であるテンペストとスピットファイアは同じ楕円型の翼を持っている(戦闘中なら誤認は十分あり得る)」と、推察を述べている。
むろん他にも候補者が2名がいるので、クロステルマンを撃墜したFw190D-9は彼ではなかった可能性もあるが、筆者は分かる範囲でこの「対決」の信憑性を調べてみた。
↓こんな地図もわざわざ引っ張り出して。(Google先生あざっす!)
http://matsumat.web.fc2.com/hero00/page007.htm
『撃墜王』によると、クロステルマンは撃墜されたその日「オスナブリュック~ハンブルク間」を飛行しており、
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Dortenmann
によると、4/21の戦闘でドルテンマンは確かに「スピットファイア」1機を撃墜したとされる。
そして、その撃墜を記録した場所はハンブルクのちょっと南にある「ブーフホルツ(Buchholz)」であり、場所的にはクロステルマンが当時飛んでいた場所と辻褄は合う。
また、『撃墜王』にある通り、
「面白いのは、その日ドルテンマンが撃墜したのはテンペストではなく2機(ドルテンマンのwikiでは1機)のスピットファイアXIVだと報告していることである」
「両機は同じ楕円形の主翼を持っている(=見間違えの可能性もありうる)」
・・・というクロステルマンの推察とも矛盾しない。
↑図のように、ゴツい顎ラジエターが特徴のテンペストと、スマートなスピットファイアは一見似ても似つかないが、上から見ると確かに見間違える可能性はありそうである。
また、スピットファイアには翼端を切り詰めた(厳密にはパーツ交換だが)タイプも存在するのだが、そちらはさらにテンペストの翼形と似ている。
※むしろそちらと見間違えた可能性もある。
なお、当日のドルテンマンの公認撃墜記録がクロステルマンの著書の記述と食い違う部分もあるので、正直これ以上のことは筆者も断言はできない。
だが、諸々の情報を総合すると、ドルテンマンvsクロステルマンという、「大戦末期のエース同士の対決」は実際にあったのではないか・・・と思うのだが、いかが思われるであろうか。
長生きしたクロステルマン氏とは対照的に、ドルテンマンは1973年に亡くなってしまったのだが、この二人が直接出会っていればどんな会話をしたのだろう・・・と考えずにはいられない。
戦後は起業家へ転身するが・・・
ドルテンマンは敗戦の日、長く戦った(といってもD9の配備は1944年9月なので、わずか半年ほどの付き合いだが)乗機を自ら処分※して敵軍に降伏。
※鹵獲を避けるため、ガソリン等をかけて焼却するのが一般的。
彼の愛機であるFw190D-9・製造番号W/nr210003号機は、こうして敵の手にかかることのないまま主の手で生涯を終えた。
戦後、ドルテンマンは一時捕虜となったが、幸いすぐに釈放されたようだ。
戦後の彼は土木建築を学んで会社を設立し、起業家として第二の人生をスタートさせることになる。
※彼に限らず、戦闘機パイロットの生き残りというのは身体もメンタルも強靭で、頭も良い連中なので起業家に転身するケースは割とある。
1950年代、「ライン川の奇跡」と呼ばれる好景気に上手く乗ったドルテンマンの事業は好調だった。
しかし70年代になると逆に不況に陥り、一転彼は追い詰められることになってしまう。
1973年4月1日、彼はハイデルベルクで自殺してしまう。享年51歳だった。
戦中、颯爽とFw190D-9を駆り、どんな危機でも生き残って見せた彼だったが、さすがに疲れてしまったのだろうか。
あるいはシンプルな命の奪い合いよりも、経済戦争の方が過酷だったのだろうか・・・
ハンスには遺児のアクセル(Axel)氏がおり、彼が父の遺品として受け継いだ戦時中の写真や日記の内容が知人のブロガーさんの手でいくつか公開されている。
この隠れたエースパイロットの事績を、後世に伝えてくれた彼らに感謝である。
そして、”ドイツ空軍最後のエース”であるハンス・ドルテンマンに敬礼を。
筆者は、生涯彼の活躍を忘れることはないであろう。
その他、ゲームなどの小話
ハンス・ドルテンマンは日本での知名度こそないが、その乗機はゲーム作品などではしばしば再現されている。
日本人モデラーによるプラモの作例でも、彼の塗装が使われることが多い。
またゲーム作品の中ではWarthunder等にも、ユーザースキンとして彼の愛機を模した塗装はいくつも作られている。
中でも、ドイツ機を中心に数々のハイクオリティなスキンを作っておられる「PaganiZonda」氏の作品がおすすめだ。
もちろん筆者もDLして今も時々使っている。(ドーラは他にも魅力的なスキンが多くて目移りしちまうぜ)
https://live.warthunder.com/post/283688/en/
また、最新のWWⅡフラシムである「IL2Bos」にも待望のドーラ9が実装され、ユーザースキンも有志の手によりどんどん作られている。
公式スキンにもJG26時代のドルテンマン機のスキンがあるほか、史実通りハーケンクロイツ付きのユーザー製作のスキンもあるぞ。
https://forum.il2sturmovik.com/topic/44383-skin-4k-fw-190-d9/?do=findComment&comment=848708
惑星warthunderの、蒼の英雄D12をちょちょいといじった使い回しモデルとは比較にならない、BOSの格好いいドーラをドルテンマン機塗装で飛ぶのはなかなか乙なものである。
※当方のツイ垢(https://twitter.com/kurovidar1945)でも使わせてもらっている「IL2BoS」のゲーム画像。もちろんこれはフォッケD-9ドルテンマン機の塗装である。
D-9はこのアングルが一番映えると思う。
古い作品では、IL2 1946でももちろん彼のスキンはあるし、まだ配布されているサイトも残っているはずだ。
その他、DCSにもD-9は実装されているのだが、IL2よりもややのっぺりとしたモデリングや、主翼の上反角が若干足りないように感じてあまり好きではなかったりする。
全日本フォッケ協会認定ソムリエ(自称)の感想