飛行機好きのお砂場

WWⅡのヒコーキやパイロットについての愛にあふれた怪文書を書くブログです。

航空機紙工作日記【F16C block 50】

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いきなりだが、筆者にはささやかな趣味がある。

 

それが「紙工作」である。

 

要は、筆者が好きなもの・・・といえば察しは付くだろうが、WW2の飛行機を紙で作る謎の趣味がある。

 

 

まあ、紙工作というと若干しょぼい響きだと思うかも知れないが、どんなものかイメージしてもらうために過去作の一部をお見せすると・・・

 

↓これとか

 

Fw190D-9

 

 

あとこれ↓とか。

P51D

 

 

と、こういう感じで「紙工作」とは言っても

 

・できるだけ精密なモデリング

・かつ風防やランディングギアなども可動

・モーターを装備すればプロペラ回転も可能

 

 

・・・という「ガチ趣味」なのである。

 

 

なお、上記2つはかれこれ6~7年以上前の作品である(エッ!?、もうそんな昔なの?ウソだと言ってくれよぉぉぉ)

 

 

この趣味を始めたのはまだ筆者が小学生の時だったか。

 

その当時は段ボールを甲板に見立てて空母っぽいものを作り、そこに艦載機の絵を描いた段ボールの切れ端などを乗っけて遊んでいた。

 

そこで、段ボール空母の上に無造作に転がる適当な艦載機を見た筆者の父が、おもむろに厚紙やカッター、折り紙などを用意してなにやらこさえ始める。

 

厚紙に線を引き、カットしていき、それを折り曲げて翼らしきものを作っていく。

 

さらに胴体、尾翼と色々組み上げていった結果・・・

 

その「厚紙」は立体の「零戦」となっていた。

 

父も肩慣らし的に作ってくれた程度だったので、まだまだプラモ並とまでは行かないが、やろうと思えばそのくらいの精巧さも可能・・・

そんな可能性を感じさせるものだった。

 

※父本人は紫電改を作るつもりだったけど零戦っぽい形になったのでそのまま零戦ということに筆者がした(笑)

 

残念ながらもうその作品は現存していないが、筆者がこの趣味を始めたのは間違いなくこの事件がきっかけだったと言える。

プラモを買う金がないのも一因だったがw

 

 

すごい・・・工作ってここまで凄いことが出来るのか。

 

やべぇじゃん、俺もやりたい。

 

筆者は割と昔から図工だけは得意で、小学校時代になるが、図工展で表彰されてどこぞの施設で展示されたこともあった。

 

 

なので、その技術の延長・・・という感じで「これなら俺もできる」と思ったわけだ。

 

そうして最初に作った作品は、父の零戦に対抗(?)する形でF6Fだったことを今でも覚えている。

 

しょせん小坊時代の作品なので出来は大したものではなかったが、自分で作った作品というのはやはり感慨深いものがある。

 

その後も暇さえあれば色んな機種を作っては、それで遊んでいたものだ。

 

一番デカいものだと、B29(モーター4つ搭載)なども作ったことがあった(笑)

あまりにもデカくて強度を保つのが大変、保管も大変ではあったが・・・

 

 

その趣味は何だかんだで今まで続き、「今回の作品」より前に作ったのは、ちょうど6~7年前の「彗星」だった(こちらも残念ながら写真は現存していない)。

 

 

それ以後は何やかんや忙しくてなかなか作る暇も気力もなかったのだが・・・

 

 

そんな筆者の「創作熱」を再び呼び覚ました存在がある。

 

コルセア/紙工作(@Vought_F4U_)さん / Twitter

 

↑で是非彼のTLを見て欲しいのだが、とにかく凄いのだ。

塗装が適当だった筆者に対し、しっかりプラモ用塗料で色も塗られた精密な紙工作。

 

特に、彼が紙工作で作ったB17とP51を複数機並べた、堂々たる戦爆編隊。

 

これを見た筆者は「パチッ」と、まるでMW50噴射装置にスイッチを入れたかのごとく何かが急激に盛り上がってきたのを感じた。

 

 

だが、材料も工具も一切用意していない状態だったので「今すぐ何か作る」とはなかなかならなかったのである。

 

 

そんな感じで「熱」が盛り上がってきた中で迎えたGW。

 

筆者は怪夢を見る。

 

 

 

筆者はちょうど、DCSでF16パイロットにデビューしたばかりでその縁もあったのだろう。これはもう何かの運命としか思えないような夢だったのだ。

 

さらに、日頃ディスココミュニティでお世話になっているアカツキ

アカツキ@CFGC (@AkatsukiAeroSp1) / Twitter

の後押し突き上げもあって、筆者はついに動いてしまった。

 

百均ショップで色々調達してきたぜ・・・「材料」を・・・!

 

丁度夢でも見たので、久々の新作は「F16C(Block50)」と決まった。

 

 

 

製作開始から主翼

やると決めたはいいものの、そもそも筆者は第四世代ジェットを作ったことが全くない。

 

ジェットで作ったのはせいぜいMe262であり、あくまで大戦機を作るのがメインだったわけだ。

 

まずは、機体について知らなければならないし、また各部分をどういう風に、どの順番で作っていくかを決めねばならない。

 

レシプロの場合、

主翼と主脚」

「胴体後部および尾翼」

「操縦席とキャノピー」

「機首と付属装置」

 

・・・という感じである。

 

 

だが、ジェットというのはなかなか難しい。

 

レシプロと違ってエンジンが胴体後部についていたりするし、また主翼と胴体がそのまま繋がっているような独特な形状をしている。

 

これらを、どのようにパーツ分割していくべきか?

それらのパーツをどうやって接続していけば自然な形になるか?

 

 

まずはその大まかな計画を立てるため筆者が最初にやるのは、

 

「実機の写真やプラモ、また三面図の確認」

 

である。

 

こことここは分割できるなとか、

この部分を先に作っておくと楽だなとか、

色々考えることがあるのだ。

 

 

というわけで、今回は主翼を最初に作ることにした。

 

主翼は他のパーツ(胴体)をくっつけていく際のベースになるので、

レシプロでもやはり主翼から作ることが多かったわけだが、

今回もやはり主翼から作ったうえでそこをベースに

他の部分を作っていくのが効率的だと判断した。

 

 

まずは、図面からこういう型紙を切り出してみる。

 

F16の主翼は、大きな前縁フラップと、フラップとエルロンを兼ねるフラッペロンがある。

 

ただ厚紙を曲げて成型していけばいいレシプロに比べると、この構造がまず厄介だ。

 

上図のように型紙を切り出してみて、どういう風にパーツを分割するか考える。

 

 

そして型紙をベースに、主翼パーツを切り出して組み立てていく。

 

せっかくなので、動翼も分割パーツにしたうえ、爪楊枝と厚紙で作った簡易な蝶番を組み込んで若干動くようにしておいた。

 

 

 

 

胴体

F16は、胴体と主翼が一体化した「ブレンディットウイングボディ」という構造を持つ。

 

実機写真を見ると分かりやすいが、F16のようなジェットは胴体と主翼が曲線で繋がっており、一体化しているような見た目だ。

 

レシプロのような「主翼と胴体が別パーツ」というのがはっきり分かる構造ではない。

 

うーむ表現が難しいw

 

しかし!

この独特の形状を何とか再現したいと思って試行錯誤したのが以下の写真。

 

 

 

違いはほとんどないだろうが、この胴体上部パーツは、何度も作り直している。

 

曲げて実機のような曲線に曲げたときに「高さが足りない」「大きくし過ぎた」など失敗を繰り返し、何度も作ってようやく納得いく形になった。

 

 

なお、ネタとして給油口に鉛筆などを差し込めるようにしたかったが・・・

内部のエンジンやエアインテーク内部と干渉するので没になった。

 

 

 

ついでに水平尾翼や後部動翼も追加。

形になってきたんじゃないか?

 

 

ちなみに、ラダーやエルロンには↓のような蝶番構造を組み込み、ちょっとだけ動くようになっている。

 

 

全体がエレベーター(昇降舵)となっている水平尾翼

 

こちらも一応動かせるのだが、強度が安定しないので左右もう一つ穴を空けておいて、そこにピンを差し込めば2穴固定が出来るようにした。

 

↑この爪楊枝を引っこ抜けば尾翼も可動。



胴体前部(操縦席周辺)

作っていてある意味一番楽しい部分ではあるが、一番繊細な部分なので、薄紙で慎重に型紙を作ってテストしながら制作していく。

 

最終的にこんな感じに↓

 



DCSで親の顔より見た計器も!

 

また、キャノピーはもちろん開閉可能にしている。

 

ただ、キャノピーの素材をどうするか悩み中。

めんどくさいので後回しになった。

 

 

 

胴体下部とエンジン

胴体下部も作成。

 

 

エンジンも現状は着脱可能になっている。

 

エンジンやノズルは後で改めてディテールアップしていく予定。

 



ランディングギアの構造は、DCSなどを見ながら研究中だがなかなか骨が折れそうだ・・・

 

 

つづく

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Bf109:ドイツ空軍の代表的戦闘機は、終戦まで戦い続けた悲劇の老兵

 

「世界で一番たくさん製造された戦闘機」

昔の筆者は、Bf109という飛行機に対してあまり魅力を感じていなかった。

 

同じ水冷エンジン搭載のP51、Fw190D、スピットファイア、あるいは三式戦などと比べると、どうにも角ばって野暮ったいデザイン。

 

当時の筆者はこの機体を「かっこいい」とは思えなかったのだ。

 

だが、最近になってむしろ(特にG型以降の)その「魔改造感」というか、

「小さな機体に極限までパワー(火力とエンジン出力的な意味で)を詰め込んだ」

デザインに魅力を感じるようになったのである。

 

 

そんな本機は、「戦闘機」としては世界で最もたくさん製造された航空機(34,852機)という肩書を持っている。

※単純な数で言えば、練習機のセスナ172(44,000機+今も生産中)が世界一である。ちなみにB24リベレーターは爆撃機として世界一の生産数(18,482機)。

 

これほどの生産数を誇ったのはドイツの工業力や技術力、あるいは本機の量産を考慮した優れた設計・・・という側面も確かにある。

 

 

・・・が、本機はそもそも設計が1930年代。

 

結局終戦まで戦い続けた本機だが、本来ならば後継機にその座を譲って引退していてもおかしくなかった。

 

 

実際、Bf109は魔改造に次ぐ魔改造で使われ続けたとはいえ、基礎設計からくる根本的な欠点をいくつも抱えていたために何度も「引退」が議論された。

 

 

・・・が、当時のドイツの戦闘機事情がそれを許してはくれず、フランケンシュタイン的な魔改造とドーピングにより無理矢理前線で戦い続ける羽目になったのだった。

 

それでもBf109は多くのドイツベテランパイロットから信頼され、連合軍の名だたる有名機を相手に奮戦し続けた。

 

ここでは、そんなBf109の生涯(?)を追ってみよう。

 

 

「Bf109」の由来について

そもそも、本機は「メッサーシュミット」なのになぜ「Bf」という型番なのか・・・初見では割と分かりにくいかも知れない。

 

同じメッサーシュミットでも「Me262」や「Me410」というように、ちゃんと「メッサーシュミット」の頭文字である「Me」を冠したものもあれば、「Bf110」のように、Bf109同様「Bf」が頭文字に付いている機体もある。

 

これは、もともとウィリー・メッサーシュミット博士が「バイエルン航空機製造(Bayerische Flugzeugwerke、BFW)」という会社に所属していた頃の作品だからである。

 

しかし、のちにBFW社はウィリー・メッサーシュミットのものとなり社名も「メッサーシュミット株式会社(Messerschmitt AG)」として生まれ変わる。

 

双発機Me210・410や、Me262は、BFW社がメッサーシュミット社に生まれ変わった後の作品であるため、「Me」を冠しているということである。

 

ただ、当時のドイツ国内外問わず、「Bf109」は「Me109」と呼ばれることも多かった。

 

大戦中の公式文書でも「Me109」と呼ばれていたり、かと思えば現場のパイロットは普通に「Bf109」と呼んでいたという話もある。

 

ぶっちゃけると、別にどちらの名前で呼んでも間違いではないということなのだが・・・。

 

 

サラブレッド」と呼ばれたBf109

Bf109は、小型の機体にパワフルなエンジンをぶち込むという、当時のドイツ戦闘機らしい設計思想で開発された。

 

設計はかなり古く、1934年に開発がスタートした本機だが、第一次大戦複葉機に毛が生えたような機体の多かった30年代において、

 

  • 単葉
  • 全金属・応力外皮式
  • 密閉式の風防
  • 引込脚

 

・・・など、当時としては最新の機構をふんだんに取り入れた野心作であった。

 

 

「小型軽量」という特徴は量産性にもいくらか寄与したが、その飛行性能も登場当初は間違いなくトップクラスだったといえる。

 

初期型はエンジンの非力さで競合機にその座を脅かされることもあったが、本命であるDB600シリーズのエンジンに換装してからはヨーロッパでも最強クラスの戦闘機として君臨し続けた。

 

 

軽さゆえの加速性、高速性、上昇性能などは空戦に有利に働き、小さな主翼のせいで翼面荷重は大きかったが、旋回性能も悪くはなかったようだ。

 

ただし旋回性能においてはスピットファイア相手では分が悪かった例も多く、テスト飛行でも「スピットファイアの運動性はBf109に勝る」とされている。

 

しかし、ハンス=ヨアヒム=マルセイユのように、本機をぶん回して逆にスピットファイアに食いついて撃墜する猛者もいたほか、燃料を満載した大戦後期の米軍機相手にはむしろ小型軽量な本機が機動性において有利に戦えることもあったとか。

 

敵機も徐々に性能アップしていったが、Bf109も度重なる改良やエンジン換装でなんとか連合軍機の性能向上についていき、ドイツ空軍の主力戦闘機として奮戦を続けた。

 

 

そんなBf109の明確な欠点としては、

  • 航続距離の短さ
  • 小型ゆえの火力増強の難しさ
  • 狭い操縦席による居住性の悪さ
  • 離着陸の難しさ

 

・・・等が挙げられる。

 

 

【10分ちょっとしか戦えない英国の戦い】

特にしばしば問題とされた航続距離の短さだが・・・

 

 

そもそも本機は小型軽量の戦闘機なので、まず燃料の搭載スペースもその分減ってしまうのは致し方ない。

 

 

また、航続距離が重視されなかった背景には、本機が開発された当時のドイツ軍の、航空機への考え方も大きく影響している。

 

 

当時のドイツ軍はいわゆる「電撃戦」重視で、「陸軍の速攻を支える直掩」としての空軍・・・という意味合いが強かった。

 

実際、ポーランド・フランス侵攻などの際は陸続きの隣国を電撃戦で仕留める、という戦法がある程度有効に働いていた時期だったわけで、航続距離の問題はあまり問題とならなかったのである。

 

・・・が。

 

フランスを攻め取ったドイツはやがてイギリスという、ドーバー海峡を挟んだ島国へ攻め込むことになった。

 

ドイツは、He111やJu87、Do17などの爆撃機を投入してイギリスの基地や工場を破壊しようとしたが、その護衛の戦闘機は当然必要となる。

 

本来、その護衛任務には双発戦闘機で航続距離を重視した「Bf110」駆逐戦闘機が充てられる・・・はずであった。

 

 

が、このBf110が護衛任務にはてんで役に立たないということが、バトルオブブリテン(英国の戦い)開始直後に明らかになる。

 

Bf110は、最高速度こそイギリスのホーカーハリケーンを若干ながら上回るものの、機動性(旋回性能や上昇力)はその図体のデカさと重量のせいで劣悪。

 

本来は高高度からの一撃離脱をするための戦闘機であったBf110だが、そんな機体を低速の爆撃機と密着させながらの護衛任務に就かせてしまったのだから、さあ大変。

 

速度・運動性すべてに勝るスピットファイアはおろか、ハリケーンにも歯が立たず、爆撃機の周囲をコバンザメのごとくノロノロ飛んでいたところをボコボコにされてしまうのだった。

 

 

しまいには、このBf110を護衛するための護衛戦闘機が必要という本末転倒な事態に陥ったため、本来航続距離の不足から長距離侵攻任務には全く向かないBf109が駆り出されたのである。

 

 

しかしそのBf109も案の定、航続距離の根本的な不足から十分に爆撃機を護衛できず、英国上空での戦闘可能時間はわずか十分かそれ以下という酷い縛りプレイを課せられる羽目になった。

 

対するイギリス軍は、燃料不足でいずれ引き返さなければならないBf109部隊をスピットファイアに任せて足止めしつつ、ハリケーン爆撃機を攻撃させる戦法を取ったため、ドイツ軍の被害は拡大する一方となる。

 

イギリス側はたとえ撃墜されても、パラシュート脱出に成功してパイロットに大事がなければ、すぐに陸で補充機を受け取って再出撃・・・なんてこともできたのだ。

 

しぶとく抵抗する英空軍とずるずると消耗戦を続けた挙句、ドイツによる英国本土上陸作戦(アシカ作戦)は未遂に終わってしまった。

 

ただし、ドイツが守勢に入ってからは皮肉にも航続距離の問題は大して重視されなくなる。

 

むしろ軽量な本機は侵攻してきた敵機に対して優位に戦えるため、エース級のパイロットはBf109をなんだかんだ言って評価していた。

 

特に、燃料を大量に搭載することで機動性が大幅に悪化するP51などにとって、熟練パイロットの乗るBf109は決して油断ならない相手だった。

 

【火力不足を補うために空力特性が悪化】

Bf109の「小型軽量」という特徴は、航続距離だけでなく火力面にも悪い影響を及ぼした。

 

なんせ搭載スペースが小さいので、より高威力な機関砲や弾薬を搭載することが難しかったのである。

 

特に、モーターカノン(プロペラ軸内機関砲)の実用化が遅れたE型までは、7.92mm×4丁という、スピットファイアやハリケーン(7.7mm×8丁)の半分くらいの火力しかなかった。

 

機動性の悪化を承知で、スイスの「エリコン社製20mm機関砲」を国産化した「MGFF機関砲」2門を翼内に搭載したE後期型も存在したが、弾道が悪くて装弾数も少なく、扱いは難しかったという。

※このエリコン機関砲を日本でライセンス生産したものが、「ションベン弾」と揶揄された九九式二十粍一号機銃である。

 

その後、試行錯誤の末ひとまずF4型の完成でモーターカノン(高威力で装弾数も多いマウザーMG151/20を1門)の搭載に成功。

最低限の火力は確保することに成功したが、大型かつ重装甲を誇る米爆撃機と交戦するようになると、これまた火力不足となる。

 

 

ひとまず、機首武装を13mmに交換するところから始めたが、従来の7.92mm機銃よりデカくなったので従来の機首カバーに収まりきらず、「ボイレ(コブ)」と呼ばれる突起を追加するという苦肉の策を取る。

 

むろん空気抵抗が増えるので性能は悪化したが、これでもまだまだ火力不足。

 

 

さらなる苦肉の策No2として「ガンポッド」・・・

すなわちMG151機関砲やMk108/30mm機関砲2門をゴンドラに乗っけて、主翼に装着することで対爆撃機用の火力を確保しようとした。

 

しかし、ガンポッドを装着すれば重量と空気抵抗のせいで当然機動性は悪化してしまう。

 

護衛機がいない爆撃機を襲うだけならまだしも、P51などが爆撃機に随伴するようになると迎撃は困難を極めた。。

 

K型になってようやく主翼内に機関砲を収納する十分なスペースができたが・・・時すでに遅し。

 

モーターカノンおよび主翼内にMk108/30mm機関砲を搭載し、小型戦闘機最高クラスの火力を手にしたK-14型は、完成していたのかすら定かではない。

 

 

【軍馬とサラブレッド・・・Fw190の登場】

何だかんだ終戦まで使われたBf109であるが、その地位を脅かしかねない強力なライバル・・・もとい嫌な同僚が登場した。

 

それが、フォッケウルフFw190戦闘機である。

 

もとは「補助戦闘機」として開発されたFw190だったが、こと「兵器」としての完成度は明らかにBf109を上回っていた。

 

  • 新米パイロットでも扱いやすい
  • 頑丈な主脚による着陸性能の高さ
  • エンジンや機体構造も頑丈で信頼性に優れる
  • 小型単発機でありながらとんでもない重武装
  • しかも余剰馬力を活かしたヤーボ(戦闘爆撃機)への適性もある

 

・・・などなど、Bf109の欠点を意識したかのような当てつけがましい設計思想で完成されたFw190は、

 

バトルオブブリテン敗退後のドーバー海峡で、かつてBf109が散々苦戦したスピットファイアを散々に蹴散らし、一時的に制空権を奪って見せるという華々しいデビューを飾る。

 

「もうBf109引退していいんじゃね?」

 

という声が出たのも無理からぬ話であったろう。

 

 

また西だけでなく、対ソ東部戦線でもFw190は大活躍する。

 

Bf109の離着陸性能の悪さは整地の不十分な東部戦線では特に問題視されたが、ここでも「ラフな着陸でも平気な主脚を持つFw190」が(Bf109と比較されて余計に)好評を得てしまった。

 

さらに、Fw190は戦闘爆撃機としても優秀で、鈍重な急降下爆撃機であるJu87などに代わって対地任務をこなして見せた。

さらに爆弾さえ投棄すれば空戦性能も高いFw190が敵機を撃ち落とすことも多く、護衛させられたBf109パイロットが「バカバカしい任務」だと感じていた逸話も紹介されている。

 

 

・・・このように、何につけても優等生なFw190の登場によって存在意義を危ぶまれたBf109であるが、唯一「高高度での戦闘」においてはFw190を上回っていた。

 

Fw190の搭載するBMW801空冷エンジンは、20,000フィート以上の高高度では急激に出力が低下するという欠点がある。

 

それに比べて、Bf109のダイムラーベンツDB601~605液冷エンジンは、米軍機のようなスーパーチャージャーこそないものの、比較的高高度でのパワーダウンがマシな部類なので、ドイツの熟練パイロットの中にはFw190よりもBf109を好む者も多かったという。

 

 

このように、Bf109は兵器としての信頼性や汎用性はFw190に劣ったが、空戦性能に関してはFw190とも差別化が出来ていたのか、結局Bf109は終戦まで主力戦闘機の座を退くことはなかったのである。

 

世間では「軍馬」と呼ばれたFw190に対し、Bf109を「サラブレッド」と対比することもあるが、なかなか言い得て妙ではなかろうか。

 

 

一向に出来上がらない後継機

そもそも・・・

 

なぜ基礎設計が「1930年代中盤」という古い機体を、ドイツは使い続けなければならなかったのだろうか。

 

スピットファイアも設計年代は同じくらいだが、あちらは基礎設計が優れていたためエンジン換装だけで十分な性能アップが可能だった。

 

しかし、一方のBf109はというと、設計の古さに・・・だけに起因するとは言い切れないような問題を大量に抱えていた。

 

本来ならより設計が進歩した後発の新型機に主役を任せて退くべき・・・というのは実はドイツだって考えていたのだ。

 

それでもドイツがBf109を使い続けた理由は、Bf109の後継機が一向に出来上がらなかったという一点にある。

 

「レシプロ戦闘機Bf109」の後継機として開発された機体には、Me209とMe309

 

Me209

いずれもBf109の後継機として開発が進められていたが、

 

速度記録機から発展した「Me209」

後述のMe309の失敗後に別の後継機として開発された「Me209」

 

・・・という、二系統の「Me209」が存在する。

 

・・・が、いずれも「(同じ液冷エンジンなら)Bf109GやFw190Dでよくね?」という程度の性能しか発揮できず、同社のMe262ジェット戦闘機も登場していたため、計画は当然のごとく凍結された。

 

その開発経緯がややこしい子達なので、いずれ別記事で語ろうと思う。

とりあえず「失敗作だった」という理解でOK。

 

Me 309

P39のような前輪式着陸装置や水滴型風防など、Bf109の諸問題を解決した意欲作・・・のはずだったが、余計な新機軸を搭載しすぎた弊害か、初飛行から問題が続出。

 

肝心の飛行性能も、Bf109Gや、同時期に開発が進んでいたFw190Dに劣るものだったため「採用価値なし」としてこれまた没になる。

 

要するに失敗作。

 

この設計思想を受け継いだ発展型として「Me509」も計画されていたが、やはり没となっている。

 

Me262

メッサーシュミット社の最高傑作にして世界初の実用ジェット戦闘機・・・といえば聞こえはいいが、エンジンの信頼性もパイロットも何もかも足りていないのでBf109の後継機・・・というポジションにはそもそもなり得なかったのである。

 

おまけにただでさえドイツ全体が燃料不足なのに燃料バカ食いだし、挙句チョビヒゲ閣下は「爆撃機として使え!」と謎のこだわりを見せたため運用は困難を極めた。

 

 

繋ぎに繋ぎを繰り返し、終戦までこき使われた老兵

・・・とこのように、Bf109は後継機となるはずの機体がことごとく完成しない&間に合わないという理由で

「引退しようにもできなかった」

のである。

 

 

そういうわけで、Bf109は各種改良を繰り返しながら終戦まで現役を張る羽目になった。

 

 

とはいえBf109は、そもそも基本設計(小型軽量の機体)からくる性能限界があった。

 

さっき言った火力もそうだが、火力を増強するためには機体そのものを無理やり拡張せねばならず、機首に「コブ」ができたり、ガンポッドを搭載したりと無理が生じた。

 

 

また問題とされた着陸性能に関しても、安全性を高めるためにタイヤを太くした結果、主翼に太くなったタイヤを収納するスペースが必要となりここにも「コブ」ができた。

 

 

改良しようとすればするほど、機体構造に無理が生じる。

 

 

その姿はまるで、全身がコブやシミだらけになったおじいちゃんのようである。

 

ある意味、頼りない後輩たちのせいでなかなか引退できない歴戦の勇士である。

 

お爺ちゃんはお爺ちゃんでも「最強の老兵」的なお爺ちゃんだったのかも知れない。

 

「世界で一番生産された戦闘機」という記録を達成してしまったのは、そういう事情もあってのことだった。

 

 

イカレたメッサーファミリーを紹介するぜ!!

さて、ここからは、メッサ―シリーズの各型やその開発経緯を紹介していこう。

 

【Bf109V】

スペイン内戦でテストされたプロトタイプ。

旧型のI-16などに対して一撃離脱およびロッテ戦法で圧倒し、その性能を実証した。

 

【Bf109A】

ユンカースJumo210エンジンの代わりにロールス・ロイス ケストレル(570馬力)を搭載した型。

 

この時点ではエンジンの非力さが指摘され、競合機のHe112などに押されていた。

 

【Bf109B~D】

エンジンにユンカースJumo210シリーズを搭載した型。

 

こちらも原型機Bf109Vとともに各型少数がスペイン内戦やポーランド侵攻で使用された。

 

【Bf109E】

バトルオブブリテンにおける主力機。

 

それまでの型の大きな違いとして、エンジンがダイムラーベンツ社のDB601エンジンに換装されたことである。

 

この新型の直接噴射式エンジンを活かし、スピットファイアやハリケーンなどキャブレター式エンジンを搭載している敵機が「マイナスGをかける(つまり機首下げ操作をする)とエンジンが止まる」という弱点を利用して戦うことも出来た。

 

その性能を活かして英空軍のスピットファイアやハリケーンと激戦を繰り広げ、華やかな活躍を・・・と言いたいところだが、その航続距離の短さが一連の空戦で大問題となる。

 

E-7型では増槽タンクを追加したことで多少航続性能はマシになったが焼け石に水だった。

 

【Bf109F】

大戦中期を支えたメッサー。

 

エンジンが改良型のDB601N~Eに換装され、馬力が向上。

 

さらに、空気抵抗削減のために主翼設計の見直しや、それまでの型に付いていた尾翼支柱なども撤去され、さらに決定版のF-4型ではモーターカノンに高威力の国産機関砲・マウザーMG151/20が搭載される。

 

空力特性・エンジンともに完成を見たのがこのタイプであり、ヨーロッパ、東部、アフリカなどあらゆる戦線を支えた。

 

かのマルセイユが愛機とし、スピットファイア相手に格闘戦を挑んでバタバタ落としまくったのもこの機種である。

 

これより後のG型は後継機の永遠の遅刻により、無理やりな魔改造で無理やり使い続けた感が強い。

 

よって「メッサ―シリーズの到達点」はこのF型かも知れない。

 

なお、火力と空戦性能どちらを優先すべきかでパイロットたちが議論した「F型論争」も起こっているが、F型は結果的に「格闘性能重視派」の意見を取り入れた機体となった。

 

【Bf109G】

通称「グスタフ」。

 

本来ならこの辺で後継機のMe209などと世代交代したかったはずなのだが、一向に後継機は完成しない。

 

というわけで、F型でほぼ性能限界が来ていたところからさらに魔改造を繰り返し、終戦まで主力を張る羽目になったのであった。

 

Bf109G1~G2

F型のエンジンを新型のDB605に換装。

 

初期のG-1型は与圧キャビンとGM-1高高度出力増強装置を搭載した高高度型として開発されたが、諸々の問題から撤去されて実戦投入されたのがG-2型である。

 

さらなる性能向上を果たしてF型に続く主力に・・・のはずだったが、新型エンジンの信頼性が芳しくなく、事故が多発した。

 

G-2型はかの「アフリカの星」ハンス=ヨアヒム=マルセイユを事故死させた機体としても悪名高い。

 

Bf109G4

G-2のマイナーチェンジ版で、無線の改良や、特に東部戦線の不整地に対応するべく主脚のタイヤ直径を拡大した。

 

そのため、主翼上部に若干の膨らみが発生している。

 

Bf109G6

この辺からだんだん(主に見た目が)狂ってくる。

 

大きな変更が、機首武装が7.92mm機銃から13mm機銃に換装されたことだろう。

 

だが、この13mm機銃が7.92mmより若干デカかったため、従来の機首カバーでは収まりきらなくなった。

 

 

というわけで、G6型からはこんなコブが生えた。

 

 

この「コブ(ドイツ語でボイレ)」を可愛いとみるか、格好いいとみるか、キモいとみるか、不細工とみるか、それは君次第だ。

 

※なお、筆者は「Warthunder」においてこのコブに日章旗を貼り付け、あたかも血走ったギョロ目のようなキモい系のデザインにしている。

と思ったら、史実のマーキングでもこのコブの部分に目を描き入れる発想は存在したようだ(笑)

 

 

この辺から、メッサ―シリーズはどこかしらコブがあったり、一部が不自然に膨れている型が多くなってくる。

 

ただ、中にはG10型やK型と同じ、コブで誤魔化すのではなく機首全体を膨らませて空力特性を改善した機首カバーを搭載したG6派生型※も登場して非常にややこしい。

※Bf109G-6/ASなど。こいつは高高度仕様のエンジンを積んでいる。

 

ついでに、風防もG10型やK型と同じで枠の少ない「エルラ・ハウベ」に換装されたりして、そいつらはもうG14型やG10型とほとんど見分けがつかない。

 

というか、大戦末期は混成部品で製造された機体もあったらしいのでそもそも厳密な型分けがされていたのかすら怪しい。

 

それはともかく、結果的にG6型はメッサ―シリーズの中でも最多生産型となった。(なってしまった)

 

メッサーG後期型をややこしくしている元凶その1である。

 

 

Bf109G10

「もうこれ以上は性能向上無理ッス!」と思われたメッサーG型が、強引に限界突破を果たしてしまったタイプ。

 

エンジンはアップグレードしたDB605Dとなる。

 

クソややこしいのだが、本機はさらなる性能向上型であるBf109K型の繋ぎとして開発された機体という位置づけであり、K型で実装される尾輪の引き込み機構や主脚カバーは付いていない。

 

でもエンジン周りの形状だけはK型と同じ仕様に改良されているからよく見ないと間違えやすい・・・という代物。

 

諸説あるが、このエンジン換装によりG10型の最高速度は、P51B~Dにも迫る690km/h前後まで迫ったという。

 

一応、ぶら下がっている尾輪がG6やG14よりちょっと長い、エルラ・ハウベ装備、機首形状がコブではなく全体的に膨らんでいるものは(たぶん)G10型という見分けは出来る。

 

 

Gf109G14

メッサーG後期型をややこしくしている戦犯その2。

 

G「14」と、G10より型番は後だが、実戦投入はむしろG10より先で、ついでに性能はG10よりも低く、G6よりはマシという程度。

 

なんでこういうワケの分からんことになったかというと、本タイプはいわば、

「K型完成までの繋ぎとして開発中だったG10」の、「さらに繋ぎ」として開発されたタイプである。

 

 

  • なんせ、G6型では性能が足りない。
  • でもK型も完成しない。
  • その繋ぎであるG10型も完成しない。
  • じゃあその繋ぎとしてG14型を(ry

 

 

・・・とまあ、こんな感じの開発経緯なのである。

 

 

ぶっちゃけ自分でも書いてて伝わってるかどうか、あるいは自分の理解が正しいのかどうか非常に不安になるのだが・・・w

(親切な人、間違ってたら教えてくださいお願いします)

 

 

ちなみに、他のG後期型同様、新型に使う予定だった部品とキメラ(混合)されるケースも多かったようで「G14型」といっても統一性に欠ける機体だったようである。

 

おかげで、中にはG6後期型やG10と見分けがつかない個体も存在する・・・。

 

 

【Bf109K】

色々極めすぎちゃった、究極のメッサーともいえるタイプ。

 

・・・といえば聞こえはいいが。

 

  • 後継機は一向に完成しない。
  • メッサーシュミット社の切り札であるMe262も問題だらけ。
  • Fw190は高高度性能が劣るので完全にBf109を置き換えるには至らない。

 

そんな事情の中、妥協に次ぐ妥協でここまで109を引っ張った挙句に生み出されたホムンクルスみたいな存在だと考えると、ある意味可哀相な機体である。

 

 

基礎設計が10年以上前の機体を、結局1945年の終戦まで改造して使い続けたのだからまったく恐ろしいものである。

※同世代のライバルである英国のスピットファイアも似たようなものだが・・・。

 

 

しかし、メッサーもK型になってようやく基礎設計がだいぶ見直され、長らくシリーズの欠点だった部分がいくらか改良されている。

 

主に・・・

  • 機首カバーは、機銃の換装やエンジンの大型化に応じた滑らかな形状のものに変更。コブで誤魔化していたものよりも空気抵抗が減る。(これは前述のG後期型の一部にもフィードバックされた)
  • 風防が、枠の少ない「エルラ・ハウベ」に換装。(これもG型の一部にフィードバックされた)
  • ヒョロ長すぎて離着陸の際に事故を起こしやすかった主脚が短く、タイヤもより太くなり、離着陸性能が若干改善された。ついでに主脚カバーの搭載で空気抵抗も削減。
  • 従来の109シリーズでは不可能だった翼内武装が可能に。(ただし諸説あり)
  • 尾輪もようやく完全引き込み式に改良され、これも空気抵抗を削減。

 

 

でも結局、K型自身も(主にエンジンの)開発が滞って実戦投入は遅れに遅れる。

 

そのため、G10やG14といったミリオタ涙目なややこしいサブタイプを生み出す羽目になったのだが・・・

 

 

・・・ここでまた、ややこしい話をする。

 

実は、K型の完成が遅れたのは本来搭載予定だった「DB605L」エンジンの開発が遅れたためであった。

 

しかし、結局待てども待てどもDB605Lは完成しなかったのである。

 

 

・・・というわけで、妥協に次ぐ妥協で生産された初期の「K4型」では、

 

「K型完成までの繋ぎだったはずのG10型と同じ「DB605D」エンジンを積むしかない」

 

・・・という、本末転倒な事態に陥った。(ややこしいんじゃボケ!!)

 

 

つまり・・・Bf109K-4型は、本来ドイツ空軍が想定していた「真のK型」ではなく、実質G-10のエンジンとK型に使用される予定だった新機体を組み合わせたものにすぎない。

 

 

それでも一応、米軍のP51などに遜色ないスペックにまでパワーアップしたK4型はG10型、あるいはFw190D型などと同時期には実戦配備が進められる。

 

が、残念ながらこの機体を使いこなせる熟練パイロットはほぼおらず、結果は散々だったようだ。

 

また、大戦末期の混乱ゆえか本命のDB605Lと4枚ペラを搭載した幻の「K14型」が存在したとか、実はG14の誤記でそんな機種は存在しなかったとか、色々ややこしい伝説が残る。

 

 

P-51:最優秀レシプロ戦闘機にして、最も美しい機体

 

私が大戦レシプロ機を好きになった大きなきっかけの一つは、間違いなくこのP51マスタングであろう。

 

 

初めてこの飛行機の姿を見たときの衝撃は、今でも覚えている。

 

 

恥ずかしながら、ガキンチョの頃の私は

「F15」のようなジェット戦闘機こそが一番かっこいい!

などと思っていた。

 

 

「プロペラ戦闘機なんて、こういう↓野暮ったい飛行機ばっかりだろw」

・・・などと考えていたのだ。

 

簡単に例えるなら、「日本の昔の飛行機」といったらみんな「ゼロ戦」しか思い浮かばないのと同じようなノリで、WW2や太平洋戦争期の飛行機は「そんなもん」としか思っていなかったわけだ。

※なんだったらWW1の複葉機とすらあまり区別がついてなかったかも・・・

 

↑の図も、筆者が子供の頃に描いたものの復元だが、まさに「ゼロ戦」をイメージして書いたものだと思われる。

※もちろん、今では零戦もまた美しい飛行機であると思うが。

 

 

 

しかしそういう筆者に対し、父は黙って書庫を掘り出し、ある本を見せてくれた。

 

 

それは、父が子供の頃に集めたWW2航空戦を題材にした漫画作品などだった。

 

 

最初に読んだのは、『紺碧の艦隊』の漫画の作画なども担当している荒巻義雄さんほか、いろんな漫画家が描いた短編集をまとめた本で、日本陸軍・海軍航空隊両方の活躍が描かれていたわけだ。

 

そして、松本零士の『戦場まんがシリーズ』も半分以上揃っていたので、そちらも読ませてもらった。

 

 

なんせまだ小学校低学年だったので、漢字なんてほとんど読めない。

人名や日本の飛行機の名前もよく分からん。解説欄も何言ってるか分からねぇ。

 

 

ぶっちゃけ、飛行機の見分けとかも当時は全然つかなかった。

 

 

そんな「にわか」のガキンチョに過ぎなかった筆者だが・・・

 

 

初めて見たこのレシプロ機だけは、猛烈に筆者の記憶に残った。

 

引用:https://toflyandfight.com/the-p-51-mustang/

 

それが、アメリカ陸軍航空隊のP-51(D型)であった。

 

 

先ほど筆者が描いた絵のような、野暮ったい「プロペラ付けた飛行機」のイメージとは全く異質な、流線型で構成されたスマートなデザイン。

 

銀色に輝く(漫画だと白一色だが)ボディ。

 

その姿はまるで、洗練されたスポーツカーのよう。

 

 

 

「え、かっこいいぞこのプロペラ機・・・!」

 

まさに「一目惚れ」だったかも知れない。

 

 

そして、その見た目に恥じぬ性能と活躍ぶりは米国でも今なお人気を集め続けている。

 

 

遺憾なことに、筆者が読んだ漫画は基本的に→寄りなものばかりで、P51は基本的に「噛ませ犬」としてのかわいそうな役回りが多かった。

 

 

だが、

「当時の戦闘機がだいたい速度600km/h前後でやり合ってる中、約700km/hという圧倒的な最高速度」

「実際はB17やB29を護衛しながら、ドイツ機や日本機を片っ端から制圧したと言っても過言ではない活躍ぶり」

 

 

これらの事実を知ると、

 

「これほど、見た目も性能も何もかも完璧な飛行機が他にあろうか、いや、ない(反実仮想形)」

 

とばかり、筆者はこの飛行機がますます好きになったのだった。

 

 

日本の漫画作品で噛ませ犬にされるのも、それだけ日本がP51という機体に相当痛い目を見せられた証拠でもあるだろう。

 

 

当時、小学校の発表会で「地元であった大空襲」を題材にした紙芝居をやることになったのだが、飛来する敵機としてP51やB29を一機ずつ、無駄に丁寧に描き込んで同級生を引かせたのはいい思い出黒歴史である。

 

 

もちろんMe262なども大戦機を好きになったきっかけの一つではあるが、あれはジェット機でありちょっと特殊なケースなので省く。

 

やはり「レシプロ機」に限定すれば、筆者を大戦レシプロ機の沼に引きずり込んだ犯人は間違いなくこのP51であったのだ。

 

 

むろん、多くの罪のない人命を奪った無差別空襲への加担や、民間人への機銃掃射などは筆者も許せないとは思う。この機体を見ただけで嫌がる人もいるのは仕方ない。

 

 

だがそれはそれとして。

 

 

ここでは、筆者はあくまでP51という飛行機を、設計者が丹念込めて練り上げた「作品」として見たいのだ。

 

形や姿の美しいものを「美しい」と感じることに、敵も味方もないし、歴史も関係ないと筆者は思っている。

 

 

「P51」の数奇な生い立ち

P51がWW2における米軍の最優秀戦闘機・・・という評価は多くの現代人が認めている。

 

 

・・・だがこのP51という機体、意外や意外。

 

  • 元はイギリス向けP40の代替品として開発がスタートした
  • 機体を設計したのは、アメリカに帰化した元ドイツ人
  • 性能が本気を出したB型以降のエンジンは、同盟国のイギリス製

 

・・・というように、「純度100%のUSAパワー!!」とかで作られた飛行機ではないのだ。

 

 

むしろ、様々な偶然と幸運、そして人の縁が積み重なったことで完成した傑作機なのである。

 

 

もとは英国への輸出用に開発がスタートする

そもそも、このP51は「次期アメリカ主力戦闘機」として、アメリカ軍の期待を一身に背負って生まれた名機・・・というわけでは全くなかった。

 

 

そもそもP51というのは、

 

「P40の代わりに同盟国イギリスへ輸出するための機体」

 

・・・として開発がスタートした飛行機だったりする。

 

 

 

第二次大戦が勃発した直後・・・

 

国産戦闘機が不足し、かつドイツの脅威に晒されていたイギリスやフランスは、アメリカからの機材供与を受けるためにあれこれと手を打とうとしていた。

 

しかし、当時のアメリカ製の戦闘機はドイツのBf109や英国のハリケーンスピットファイアに比べてもどうにもパッとしない機体が多かったので、イギリスなどに輸入される機体は限られていた。

 

そんな当時のアメリカ製戦闘機の中では「比較的モノになる」とされていた機種のひとつが、カーチス社のP-40だったのである。

 

 

・・・が、このP-40もカーチス社からの直輸入だけではどうにも数が足りない。

 

 

一応P40はアメリカでも主力戦闘機として扱っている機体だったので、同盟国に十分な数を行き渡らせるほど余っているわけでもなかった。

 

そこでイギリスの輸入委員会の長だったヘンリー=セルフ卿は、懇意にしていたノースアメリカン社に対して、

 

「いっそこのP-40を、ノースアメリカン社で生産して渡してくれないか?」

 

と、打診したのだった。

 

 

そして当時のノースアメリカン社の社長だったキンデルバーガーは、この英国からの申し出を「商談のチャンス」だと捉えた。

 

 

ノースアメリカン社の主任設計士のエドガー・シュミュードにこの話を相談した結果、キンデルバーガーはヘンリー=セルフ卿にこう回答する。

 

 

「いや待ってください、P40が欲しいですってお客さん!?」

「ウチの会社ならP40なんかよりいい飛行機を、同じエンジンで、より短い製作期間で作って見せまっせ!」

 

 

・・・そういった経緯の中、かなりのハードスケジュールで1940年3月から開発がスタートしたのが「NA-73」・・・のちの「P51」という機体だったのである。

 

つまり。

もともとP51は「アメリカ軍の期待を一身に背負った次世代戦闘機」としてどころか、「英国が数を欲しがっていたP40の代替品」として開発がスタートしたのであった。

 

 

設計主任は、エドガー=シュミード技師

この「P40に代わる英国輸出用飛行機」の設計主任を任されたのは、先にちょっと登場したNA社の主任設計士であるエドガー=シュミュード技師である。

 

 

なお、このシュミード技師はかなり面白い経歴を持っており、元は敵国であるドイツで生まれた人物だった。

 

厳密には、ドイツからブラジルを経てアメリカに帰化した人物なのでそういう意味では「アメリカ人」ではあるのだが・・・。

 

しかし、P51という機体は「ゲルマン職人」が設計した機体である、という事実はなかなか皮肉なものである。

 

数年後、シュミードの設計したP51が、生まれ故郷であるドイツをボコボコにすることになるわけなのだから・・・というのは後のお話。

 

 

なお、シュミード自身にドイツに対してどれほどの愛着があったかどうかは謎だが、周囲からはドイツ出身ということで変な噂を立てられることはあったようだ。

 

たとえば、シュミードは「昔はBf109などを設計したBF(バイエルン飛行機)社にいた」という噂を立てられることがあったらしい。

 

実際のシュミードはBF社やその後身であるメッサーシュミット社とは全然関係がなかったわけだが、彼の出身がドイツであること、あるいはBf109とP51が素人が見ると「よく似たシルエット」だったこと(あとファミリーネームががシュミードで若干メッサ―シュミットっぽかったから)等もあって、そうした根も葉もない噂に晒されることもあったのだ。

 

 

それはともかく・・・キンデルバーガー社長(というか英空軍)からかなりハードスケジュールを提示されたシュミード技師だったが、彼はその期待に見事に応えて見せる。

 

 

普通、新型戦闘機の開発というのは年単位で時間がかかるもの。

 

Fw190も設計開始から初飛行まで1年ほどはかかっているし、スピットファイアも約1年。

 

しかし、この「NA-73(この頃はまだP51とは呼ばれていない)」は、開発がスタートした1940年3月から半年ちょっとの10月には初飛行。

他社平均の2倍弱というかなりのハイペースである。その突貫工事のせいでいくつか問題点も残る羽目になるのだが。

 

 

おまけに、これまでノースアメリカン社は練習機で実績を残していた会社で、戦闘機を開発したことがなかった。

 

 

要するに、NA-73の成功失敗は完全にシュミード技師の腕前次第という状況で、経営判断としてはかなりの見切り発車で開発がスタートされたわけである。

 

 

そして結果的に、この判断はノースアメリカン社を躍進させるきっかけとなった。

 

 

シュミード技師にはもともと戦闘機設計の腹案があったのだろう。

 

 

先のキンデルバーガーの急な「無茶ぶり」にもシュミードはむしろ積極的に応え、その言葉通りに「P40より遥かに優れたNA-73(P51)」を生み出すのである。

 

 

P40よりは高性能だが、戦闘機としてはイマイチだった初期型「マスタング

そうして開発されたNA-73(P51)は、1942年3月に「マスタング.MkⅠ」として600機ほどが英空軍に送られて実戦配備される。

 

 

つまり、初めて実戦配備されたNA-73は英空軍向けの「マスタング」であり、「P51」という名称はまだなかったのである。

 

 

なお、英空軍におけるマスタングMkⅠの評価はなかなか高く、航続距離が短い英国製単発戦闘機ではできない、遠距離の対地任務や偵察任務も可能なので重宝された。

 

 

特に欧米機は航続距離の短さに悩まされることが多く、Bf109やスピットファイアはどちらも「高い機体性能に、短すぎる航続距離」という欠点があった。

 

一方、マスタングは大容量の燃料タンクを装備しているため航続距離が非常に長いのである。

 

 

・・・ただし、肝心の「戦闘機」としてはあまり使われなかったようだ。

 

 

というのも、マスタング Mk.Iには「ヨーロッパ戦線の主力戦闘機」として使うには大きな問題があった。

 

それは、スピットファイアやドイツのBf109の得意な高高度戦闘が苦手というもの。

 

 

ただ、これはNA-73の設計が悪かったのではなく、搭載しているエンジンの問題であった。

(航空機は、機体とエンジンは別々の会社で設計開発されるのが一般的だった。ドイツも日本も機体設計は進んだのに高性能なエンジンが完成しない・・・というパターンでお蔵入り、または実戦投入が遅れた機種は多数ある。)

 

実は、マスタング初期型をはじめ多くの米軍機に搭載されていた「アリソン社製V-1710エンジン」は、高高度性能が乏しかった。

 

 

つまり、

「P40と同じエンジンを搭載しつつ、かつ超える飛行機を飛ばしてやるぜ!」

というキンデルバーガーのセリフの通り、本当にP40と同じ系統のエンジンを搭載した飛行機を作っちゃったのが裏目ったわけである。

 

 

しかし、Bf109もスピットファイアもエンジン性能の向上でだんだん戦闘高度が上がっていき、低空向け(ようは高高度性能が低い)エンジンを搭載したマスタング.MkⅠには厳しい世界だったのである。

 

 

むろん、航続距離と低空での高速性能は対地攻撃機(ヤーボ)として、または偵察機としては英空軍にとって十分価値のあるもので、「駄作」と烙印を押されたわけではないことは断っておく。

(その英空軍に実際「駄作」として捨てられたP39という前例もある)

 

 

ただ、「欧米の戦闘機」としてはあまり価値がなかっただけで・・・。

 

 

米軍仕様「P51(A)」「A36」も少数配備に留まる

NA-73ことマスタングは、元々英国への輸出向けに作られた機体であったためもあって、米陸軍航空隊の関心はあまり向いていなかったようだ。

 

 

確かにP40より高性能ではあったが、同時期にはNA-73よりも高高度性能に優れ、大馬力エンジンで700km/h近くを叩き出すP47というバケモノが開発されていたこともあったかもしれない。

※実際、P51B型以降とP47はパイロットの間では評価が分かれており、むしろ頑丈で大火力なP47を好むパイロットが多かったという。

 

 

ただし、一応「P40よりは高性能」ということで、米陸軍もこの機体にちょっと関心は寄せていたようである。

 

米陸軍航空隊はその気になれば航空機の海外への輸出を禁止できる権利を持っている。

 

軍に「他国に自国の機体をポンポン売りさばくな」とか「自国向けの生産を優先してね!」と言われたら従うしかないわけだ。

 

そこでノースアメリカン社は、軍によるNA-73の輸出禁止権を行使されないよう、2機のNA-73をタダで軍に提供することでご機嫌を取る。

 

ようは、英国軍への商売を邪魔されないように手を打ったということなのだろう。

 

・・・なお、受け取った陸軍はこの機体にやっぱり大して期待していなかったらしく、特に実験や研究などに使用されたりもしないまま倉庫の肥やしになってしまったが。

 

 

まあ結果的に「イギリス様との商談を軍の介入で潰させない」という、ノースアメリカン社の目的は十分に達成された。

 

予定通りに機体の納入は進み、英国での活躍が伝わるにつれてか、米陸軍はイギリスで使われていたマスタングMk.ⅠA(イスパノ機関砲4門を搭載したもの)を逆輸入する形で配備し始める。

 

そのマスタングMk.ⅠAの米国名称が「P51」となる。

 

 

その他、偵察機型のF6、NA-73を対地仕様にしたA36、さらにA36を改修して低高度戦闘機とした「P51A」などの派生型も生まれたが、いずれもそれほど多くは生産されなかったようだ。※P51初期型の型番はややこしいので後で解説。

 

 

しかしやはり高高度性能の不足は否めず、戦闘機として使用された中国戦線も低空での戦闘が多く「フライングタイガースなどが使うP40よりは高性能だし、使わないと損だよね」ということで使われていたにすぎない。

 

少なくとも、この時点のP51は「最優秀戦闘機」と呼ばれるほどの機体ではなかったのである。

 

 

思い付きで英国製マーリンエンジンを搭載してみたら、劇的ビフォーアフター

そして「傑作機」として本格的に活躍を始めるB型以降は、ほとんど偶然生まれたと言っても過言ではなかった。

 

きっかけは、ロンドン駐在のアメリカ武官が

「エンジンのせいで高高度性能微妙だけど、逆にエンジン換えたら化けるんじゃね?」

と、提案したことによる。

 

 

折しも、英国にはアリソンエンジンと同サイズながらより高性能な「ロールスロイスマーリン61エンジン」があり、これは主にスピットファイアMk.Ⅸなどに搭載されるものと同系統の高出力液冷エンジンだった。

 

 

英国側も、英国製戦闘機にはないマスタングの優れた長所を知っていたので、早速マスタングの数機をマーリンエンジンに換装した「マスタングMk.Ⅹ」を試作する。

※図:マスタングMk.Ⅹ。試作機なので色々洗練されていない野暮ったい見た目だが、かなりの高速を発揮して関係者を喜ばせたという。

 

改造元となった5機はそれぞれ違った改修を施され、試行錯誤の結果、高度21,000 フィート (6,401 m) で 700km/h 近い高速を発揮。

 

 

同時代のスピットファイアが敵のBf109やFw190が600km/h台中盤でやりあっていた時期だったので、この性能はまさに驚異的だった。

 

 

このテストを見た米軍関係者も大急ぎで本国に報告し、当初あまりこの機体に注目していなかった米軍も改めてマーリン搭載型をテスト。

 

その長大な航続距離と飛行性能は他機種では替えのきかないものであり、ここでついに「P51」が米陸軍の主力戦闘機として採用されることとなる。

 

そのためにアメリカは、英国製のロールスロイス・マーリンエンジンのライセンスを米パッカード社に取得させて生産させることになるのだった。

 

なお。このパッカード社製マーリンエンジンはのちに英国にも逆輸入され、スピットファイアMk.16型が誕生しているが、それはまた別のお話。

 

 

・・・

 

 

・・・そんなこんなで、

マスタングの本気」はこのマーリンエンジンを搭載したうえでより設計を練り直したP51B/C型から始まる。

 

 

B17・B24爆撃機の護衛戦闘機として活躍

高高度での優れた性能、長い航続距離。

 

そんなマーリン搭載の新型P51にとって、まさにうってつけの任務があった。

 

 

それは、ドイツ軍の兵器を生産する工場や、ドイツに占領されたヨーロッパの輸送システムを破壊するために開始された「戦略爆撃」・・・その護衛任務である。

 

 

1943年頃、米陸軍は英本土に駐留させたB17やB24などの大型重爆撃機をたびたび出撃させ、英空軍のランカスターやハリファックスとともに戦略爆撃を行っていた。

 

 

しかし、当時はB17やそれよりさらに長距離まで飛行するB24を護衛できる戦闘機が不足していたのである。

 

ドーバー海峡を越えてフランスやベルギーで爆撃をするだけならともかく、ドイツ本土まで爆撃するとなると、「戦闘機の燃料不足で、最後まで護衛できない」という大問題があったのだ。

 

要するに、敵地に侵入する前後という一番敵戦闘機に襲われやすいタイミングで、護衛もなしに爆撃機のみで突っ込まなければならないわけである。

 

 

・・・が、それでも連合軍はこの爆撃任務を強行してしまった。

 

その原因としては、

  • 連合国側が、ドイツの迎撃能力を甘く見ていたこと
  • ↑の結果として、比較的航続距離の長いP38を護衛から外し
  • 期待されていたP47の増槽タンクに問題が発生し、その改良も遅れた

 

・・・などの悪条件が重なったわけだが・・・

 

 

護衛もなしでドイツ本土へ突っ込んでいった米重爆撃機部隊は、当然のごとくドイツ軍の地上部隊と迎撃戦闘機の猛反撃を喰らう。

 

 

おかげで、想定以上の損害を受ける羽目になった。

 

酷い場合には、

  • 数百機が出撃して50~60機が帰ってこない

という甚大な被害を出し、多くの貴重な爆撃機クルーが失われることになった。

 

※映画『メンフィス・ベル』などでは、この過酷なドイツ本土爆撃の様子が見られる。なぜか護衛機に、当時いなかったはずのP51Dがくっついてたりとおかしい部分もあるけど

 

 

そんな中、「長大な航続距離を持ち」「P47に勝るとも劣らない高高度性能・高速性能を持つ」P51B、C型が登場したことは大きな助けとなった。

 

 

それまで、B17やB24を数百機を出撃させては毎回数十機が帰ってこない、という大損害を被っていた爆撃部隊だったが、護衛戦闘機さえいれば重爆部隊の損害は劇的に減少し、片手で数えるほどまで減少したという。

 

 

そして・・・

 

 

ようやく登場。

 

 

P51の決定版となった「P51D」では各種改良により、P47と並ぶ主力として活躍することになる。

 

 

対地攻撃機としても使用されるが・・・

なお、P51はボマーエスコートとしてだけでなく、対地任務でもそれなりに使われていたことは初期型の項目でも解説した通り。

 

むろん、B~D型が対地任務に駆り出されることも珍しくはなかった。

 

 

・・・が、P51のような水冷エンジンは、

「ラジエターなどの被弾にとても弱い」

という欠点があり、激しい対空砲火に晒されやすい対地任務ではいささか分が悪かったのだ。

 

冷却装置のどこかに被弾すれば、すぐに冷却水漏れ等を起こしてエンジンがオーバーヒート、墜落または不時着を余儀なくされてしまったのである。

 

 

なお、頑丈な星型空冷エンジンと、デカいエンジンと機体によりたくさんの爆弾やロケット弾を積めるP47の方が対地任務には向いており、そういった部分においてはP47が上であることが証明された。

 

 

とはいえ、空戦ではやや鈍重なP47よりもP51の方が有利な場面は多く、通算撃墜5機超えのいわゆる「エースパイロット」も多数生み出している。

 

 

しかし、P47も空戦性能では末期の練度も機材も劣化していくドイツ軍を相手にするには十分であり、むしろ防御力と火力の差からP51よりP47を好むパイロットも一定数いたことは先に述べた通りである。

 

 

「最強」と「最優秀」

なお、P51は「最優秀」ではあるが「最強」ではない・・・といった解説を筆者も時たま見かける。

 

 

そもそも戦闘機における「最強」とは何か・・・というと、これはなかなか結論が難しい。

 

たとえば、飛行機にはエンジン性能や機体特性によってそれぞれ「得意とするフィールド」がある。

 

たとえば零戦は、低速域・低~中高度での旋回を活かしたドッグファイトではめっぽう強かった。

 

しかし、エンジンの問題で高高度ではエンジンがまともに動かずヘロヘロになるし、高速域だと舵が固まって機動性が悪化する特性がある。

 

※その弱点を見抜いた米軍は、「ゼロ戦とはドッグファイトをせず、一撃離脱をかけて速度で振り切れ」という作戦に切り替えていくわけだがそれはまた別の話。

 

 

一方、P51は「層流翼」という、当時の戦闘機にはほとんど使用されなかったタイプの翼を持っており、これは高速での機動性を確保しているため、エンジン特性も手伝って高高度の高速戦闘は得意だった。

 

しかし、この翼形は「低速度域の失速を誘発しやすい=つまり低速時の飛行安定性が悪化する」という欠点もある。

 

実際、中国戦線では「隼」など、旧型ながら低速・低高度で運動性に勝る戦闘機に不利な戦いを強いられ、撃墜されることもあった。

 

 

また、「色んな性能を比べると、一つ二つくらいP51に勝る項目がある」ということもあり、もしパイロットがミスをして敵の得意なフィールドに持ち込まれれば、P51とて無敵ではないのである。

 

 

むろん速度に関しては大戦全体を通してもかなりのもので、特に日本機相手だとP51の最高速度に追いつける機体は皆無だったことは間違いない。

しかし、日本機の得意なドッグファイトに持ち込まれればやはり不利は否めない。

 

 

また、速度に関してもドイツのBf109KやFw190D後期型・Ta152などにはやや優位の互角、あるいは高度域によってはわずかに上回られることもあった。

おまけにあいつら、戦争終盤には800~900km/hで飛ぶジェット・ロケット戦闘機というインチキを投入してくるし・・。

 

また、スピットファイアも「グリフォンエンジン」というモンスターマシンを積んだ後期型では高高度でもP51を上回る高速を発揮し、馬力にモノを言わせた上昇力でも勝る。

 

 

このように、P51は決して「最強」ではなかった。

 

 

しかし、P51は、

  • 「全ての性能が、まんべんなく高水準にまとまっている」
  • 「かつ、量産性も高く、安定した補給体制により十分に性能を発揮できる」

 

という、量産兵器としては十分すぎるほどの長所を持っていた。

 

 

現に、たとえば日本機相手には速度を活かした一撃離脱、速いが運動性の劣るドイツ機には逆に高速旋回戦で挑む・・・など、相手に応じて有利な戦法で戦うことができたのだ。

 

 

そして、量産性に優れた構造により十分な数が配備でき、それを扱うパイロットの質も高かったことも大きかった。

 

 

特に、当時としては圧倒的な高速性能を誇り、上手く扱えば一方的に連合軍機を攻撃できたMe262ジェット戦闘機が信頼性に劣り、また物資やパイロットも不足していたことから十分に活躍できなかったことは有名であろう。

 

 

兵器とは、圧倒的高性能機が少数いれば戦況をひっくり返してくれる!なんてロマンチックなものではない。

 

十分な数と信頼性、ある程度のことをそつなくこなせる汎用性、そして扱う人間の量と質が「名兵器」を「名兵器」たらしめる重要な要素なのである。

 

 

 

P51は「最強」でなくとも「最優秀」と言われるゆえんは、そういった様々な評価基準を加味してのものなのだ。

 

 

 

結構デブだったP51

なお、余談だがP51は「結構デブ」だったと言われる。

 

ようは、「機体規模の割にやけに重たい」ということなのだが。

 

 

実際どのくらいデブなのか筆者は調べてみたことがある。

 

 

その結果は、以下のデータを参照して欲しい。

 

★空虚重量比較(MASDFや飛行マニュアルの記載を参照)★

P51A・・・約2.8トン

P51D・・・約3.4トン

フォッケウルフFw190A8およびD-9型・・・約3.2トン

メッサーシュミットBf109G6・・・約2.4トン

スピットファイア.MkⅨ・・・約2.3トン

四式戦闘機「疾風」・・・約2.7トン

 

 

 

・・・と、こんな感じであるが。

 

 

このように、他国機と比べてもP51が「相当重い」機体だったことが分かるだろう。

 

 

数字だとイメージしづらいかも知れないが、飛行機にとって「数百キロの違い」というのはかなりデカい。

 

400kg~500kgの違いは、たとえるなら馬一頭を余分に乗っけて空戦しているようなもので、そう考えると結構な差である。

 

 

A型はまだしも、P51D型ではさらにデブになって空虚重量3.4トンにまで増量。

 

こうなると敵であるBf109G6以降(これでもメッサーの中では武装強化や追加装備により重くなった方)に比べて1トンもの重量差がある。

 

欧州戦線の単発戦闘機でこいつより重たい機体といえば、

P51より全てが一回りデカいP47(約4.5トン)。

 

または、デカい大馬力エンジンを積んだホーカータイフーン・テンペスト(約4トン)。

 

さらに、海軍も比較対象に入れるなら、F6FやF4U(各約4.1~4.2トン程度)もいる。

しかし、彼らは艦上機なので着艦制動フックや主翼の折り畳み機構があり、また十分な防弾装備を施した機体のため重量増加はやむを得ない。

 

Ta152なども4トン程度だが、こちらも高高度用のデカい翼とデカいエンジンを搭載しているので重たいのは当然か・・・

 

 

また、フォッケウルフFw190A8型はP51よりは小型だが、対爆撃機を想定した頑丈な機体構造や重武装により「かなり重たい方」とされる戦闘機である。

それでもP51Dよりは200kgも軽い。

 

P51はスマートな外見に反して、内臓脂肪が溜まってるイケメン中年のごとく、相当重たい飛行機なのである。

 

 

ご覧のように、比較的軽かったA型の段階から既にBf109Gやスピット後期型に比べて4~500kgも重たかったわけだが。

 

 

じゃあそんな重量なのだから、きっと内部構造とかが頑丈に作られてるんだろうな・・・というと別にそんなわけでもなく、機体構造自体は強度不足とまで言われていた。

 

スマートなデザインによる空力特性はともかく、内部は相当雑な設計になっていたのかも知れない・・・。

 

 

そんなわけで、

  • 低速域では安定性に欠け、事故の可能性もあった
  • 胴体燃料を満載している状態で空戦機動をすると、バランスを崩して最悪墜落する

 

など、乗り手にとっては結構洒落にならない問題も残されていた。

 

 

結局、実戦では

  • 増槽タンクよりも、胴体燃料の方を先に使用する

 

などの対策でその問題をカバーしたようだ。

 

 

そもそも燃料満載状態で飛ぶのは、爆撃機を長距離護衛するために英本土から飛び上がった直後だけであり、連合軍がドーバー海峡の制空権を取っている状態では問題なかったといえるだろう。

 

 

が、やはりこの欠点により事故死してしまったパイロットも存在した。

 

これらの設計問題・重量問題は、P51のさらなる発展型が完成するまで解決できなかったのである・・・。

 

 

【P51の派生型】

P51は、一口に「P51」とはいっても、型によってかなり性能や運用法が異なる。

 

そのため、ここでは「P51」の型や派生型、またその特徴をまとめてみた。

 

マスタング.MkⅠ、およびP51】

B型以降とは明確に区別される、P51の初期型である。

 

B型以降との大きな違いは、アリソン社のあまり高高度性能の高くないエンジンを搭載していることである。

 

いわば「まだ本気を出していない頃のP51」。

 

 

マスタング」は、「ノースアメリカン社が開発した英国向けの機体NA-73」に与えられた最初の名前である。

 

エンジンはアリソン社製なので高高度性能に問題があったものの、長大な航続距離と低空での性能は英空軍からも高く評価され、偵察や対地攻撃に活躍する。

 

標準状態では、米軍の一般的な武装であったブローニング12.7mm機関銃を機首に2丁、さらに2丁の12.7 mm機関銃+4丁の7.62 mm機関銃を主翼に備えていたが、武装強化型のMk.ⅠA型はイスパノ社製の20mm機関砲4門を搭載しており、なかなかの重武装を誇った。

 

 

「P51」は、英空軍で使われていたマスタングMk.ⅠA型の一部を逆輸入(帰国?)して米軍機として運用するために改称されたものである。

 

 

【A36アパッチ、およびP51A】

ここから少しややこしいのだが・・・

 

アメリカ陸軍は、英国に送るための「マスタング」とは別で、NA-73を対地攻撃機として再設計したものを発注した。

 

そうして生まれたのが「A36」”アパッチ”である。

 

武装を6丁の12.7 mm機関銃(機首に2丁、主翼に4丁)と、急降下爆撃時の速度超過を防ぐダイブブレーキ、さらに500ポンド (230 kg) 爆弾を2つ搭載可能とし、開発が遅れている米新型対地攻撃機の代わりに運用された。

 

そして、その「A36」を戦闘機仕様に差し戻したうえで「エンジンの馬力強化」「新型スーパーチャージャーの搭載」などの改良を加えられて出来上がった機体が

「P51A」

であった。

 

こちらは中国戦線に送られて、フライングタイガースなどで運用されていたP40から機種転換がすすめられた。

 

相手が高高度性能の低い日本機なので、P51Aでも十分戦えたのである。

 

 

・・・つまり、イギリス仕様のものを逆輸入した「P51」と、アメリカ向けに作られた対地攻撃型から転用された「P51A」は別物。

 

顔のよく似た別家系の親戚みたいなものであり、混同してはならないのである。

※てか、ぶっちゃけ筆者もちゃんと調べるまで知らなかった

 

 

図解するとこんな感じになる。

ただ、これらP51初期型は、使用された任務などの関係もあってあまり多数は生産されず、後述するB、C型の登場でお役御免となってしまう。

 

 

【P51BおよびC、マスタング Mk.III】

機体性能的に、P51が本気を出したのはこの型から。

 

A型との明確な違いは、エンジンがアリソン社のものから、英国のマーリンエンジンをアメリカで国産化した「パッカード・マーリンエンジン」に換装した点。

 

このエンジンとの出会いにより、凡庸だったP51の性能は見違えるほど向上。

最高速度は700km/hを超えることとなり、高高度性能もトップクラスのものを獲得。

 

 

むろんその航続性能も健在で、特にライバル機・P47ではできない爆撃機の長距離護衛任務ができたことは大きなアドバンテージになった。

(P47にも増槽タンクが搭載でき、その場合P51並の航続距離を獲得できたが、そのタンクの実用化が遅れてしまったためB17部隊が多大な被害を被る原因になった)

 

 

こうして、「英国向けの輸出機体」にすぎなかったP51は一躍、米陸軍航空隊の主力機となっていく・・・。

 

なお、B型とC型は生産工場が違うために便宜上分けられているだけで、機体そのものは全く同じである。

 

B/C型はイギリスにも供与されて「マスタング Mk.III」と呼ばれた。

 

ただし、マスタングMk.Ⅰに比べると火力が低下(12.7mm機銃4丁)してしまっていたため、イギリスのパイロットには必ずしも好評ばかりではなかったようである。

 

また、風防構造による視界の悪さを嫌って、スピットファイアのような「全体が膨らみ、窓枠が撤去された簡易バブル型キャノピー」に交換して運用したものもあった。

 

※図上・・・通常型キャノピーのマスタングMk.Ⅲ
 図下・・・「マルコム」型キャノピーに交換しマスタングMk.Ⅲ

 

【P51DおよびK】

我々がよく知る「イケメンなP51」の姿となるD型は、P51の決定版ともいえる型である。

 

それまでの型との大きな違いは、胴体が大幅改修されて、現代ジェットのような「水滴型キャノピー」が搭載されたことだろう。

 

引用:

P-51-361 

 

今までの戦闘機は胴体後部とコクピットが繋がった「レザーバック型」が多く、操縦席から後ろがよく見えないため、空戦には不利だとされていた。

 

しかし、この水滴型キャノピーの搭載で後方もよく見えるようになり、パイロットの後方確認に大いに役立つこととなった。

※P47やスピットファイア後期型などにも同様の改修が施された。

 

 

武装も、ブローニング製12.7mm機銃4丁が標準だったB~C型から増強され、6丁となる。(中には重量増加を嫌って4丁のまま運用した個体もあり、逆にB~C型の機銃を増設した個体もあったようだ)

 

 

誤解される方もたまにいるが、P51Dは以上の改修による空力特性の微妙な変化や重量の増加により、単純な飛行性能はB~C型より若干劣化していたりする。

 

 

特にD初期型はキャノピー更新のための胴体の大幅改修により、横安定性が悪化してしまうという問題が発生した。

 

そこで、D後期型は垂直尾翼に「ドーサルフィン」を追加して面積を増大させることで、この問題をある程度改善したのである。

 

写真上:P51D初期型。

写真下:P51D改修型。機体後部の垂直尾翼の形が、ドーサルフィンの追加により若干変わっていることに注目。

 

 

・・・ただし、P51Dはこの改修以外にもマイナーチェンジ版が多数存在するので全部紹介していたらキリがない。(できたらいずれ紹介したいが)

 

中には高オクタン価の燃料を使用したハイブースト仕様の機体や、他にも後方警戒装置を搭載した機体、偵察用にカメラを搭載したものもあった。

 

P51Kは、プロペラの生産不足を補うべく、D型と違う会社のプロペラを搭載していることにより分けられた型で、それ以外はほぼP51Dと同じと見なしてよい機種である。

 

ただしこのK型、「D型よりも軽いプロペラ」ではあったが、振動発生による故障などのトラブルが相次ぎ、少数の生産に留まってしまった。

 

【P51J】

実は、米国内でもP51のエンジン換装案は研究されており、P51A型以前のエンジンを作っていたアリソン社自身も、高高度性能と馬力をアップさせた改良型エンジンの開発に取り組んでいた。

 

最終的に、二段二速過給機を搭載したアリソンエンジン改良型を搭載したP51は「P51J」として試作開発が進められ、かなりの性能向上が見られた・・・のだが。

 

パッカード社製のマーリンエンジンを搭載したP51B~Dが十分すぎる性能と戦果を残し、さらに大馬力のパッカード社製マーリンエンジン改良型を搭載したP51Hのほうに関係者の目が向いてしまったことなどから、量産されることなく終わった。

 

 

【P51H】

AFHRA - AFHRA, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=118391による

 

幻ともいえる、「P51シリーズ最終進化系」である。

 

結果的に優秀だったP51だが、もともとP51原型機が殺人的なスケジュールで設計された機体なのもあり、その機体構造にはいくつかの「粗」があった。

 

その中でも特に問題だったのが「構造上の無駄による重量増加」である。

 

特にP51Dは単発戦闘機としてはかなり重たい機体で、武装や燃料を省いた「空虚重量」を比べてもスピットファイアやBf109などよりずいぶん重たい。

 

 

そこで、そのP51を

 

  • 「設計の見直しで軽量化し」
  • 「さらなるエンジンの改良でさらに高性能を引き出す」

 

・・・という計画のもとに誕生したのがP51Hである。

 

なお、H型の開発にあたってD型をベースに軽量化したF型、G型、また新型アリソンエンジンを搭載したJ型の試作データが活かされている。

 

 

この最終進化系のP51は、最高で760km/h前後という、もはや黎明期のジェット爆撃機Ar234程度なら追い回せるレベルの最高速度を獲得。

 

おまけに日本の敗戦がもう少し遅ければP51Dに代わって大量投入される寸前だったというから恐ろしい。

 

・・・が、戦闘機としての性能に全振りしてしまった弊害で、ジェット戦闘機が主力になった時代になってしまうと、かえって部品供給や耐久性の問題からその価値を失う。

 

「レシプロ機は空戦能力よりも信頼性・耐久性で対地攻撃に従事する」

 

という運用思想に変わってしまった朝鮮戦争では全く使われず、むしろ「F51D」と名を変えたD型がH型を差し置いて使用される有様だった。

 

 

 

また、機体を変に絞りすぎた結果としてフォルムが崩れ、P51D型よりもなんか不細工になってしまった。

 

そのため、現代の復元も基本みんなイケメンなD型であり、現存していたH型もみんな人気のD型のための部品取りなどでバラされ、現存機はほとんどなくなってしまった。

 

※同じような開発思想のもと、P51H同様戦後に価値を失った機体として、海軍のF8Fが挙げられるが、あっちはレーサーとして生き残ったぶん、まだ幸せであったかも知れない・・・。

 

 

【F51】

日本同様、大戦当時はアメリカにもまだ「空軍」は存在しておらず、「海軍航空隊」「陸軍航空隊」という、あくまで「陸海軍の一部門」という扱いでしかなかった。

 

しかし、戦後「米陸軍航空隊」が「米空軍」として独立新設されたことで、空軍に引っ越ししたP51が「F51」と改名された。言ってしまえばそれだけである。

 

P51D型だけでなく、P51H型もそれぞれ「F51D」「F51H」と改称されたが、大戦後のレシプロ機の役割変化などの事情により、むしろ性能の劣る旧型のF51Dの方が対地任務で重宝され、H型の方はまともに実戦を経験しないまま退役した。

 

 

【P82、F82】

別名「ツインマスタング」といえばおおかた予想は付くだろうが、P51の胴体をくっつけてP38のような双胴にした、マスタングファミリー随一のゲテモノ機体。

 

 

しかも、操縦席はP38のように真ん中に一個あるのではなく、左右の胴体それぞれに一つずつあるのが余計ゲテモノ感がある。

 

これは片方の操縦者が休んでいる間にもう片方が操縦する・・・という、本機の運用コンセプトである偵察任務には合理的(?)な理由によるものだった。

 

 

なお、「P51を二つくっつけた」とは言うが、厳密には「P51Hの開発過程で生まれた、軽量試作型の「P51F」をくっつけたような機体」という方が正確。

 

さらに戦後に開発された改良型・F82Gは、試作に終わった「P51J」で搭載されたアリソン社製V1710に換装しており、こちらは「P51J」をくっつけた機体といった感じになっている。

 

 

・・・こんなゲテモノ飛行機は大抵失敗作に終わるのが常だが、意外にも朝鮮戦争まで活躍した。

 

 

当時のジェット機は空中給油もできず、航続距離も短いため長距離偵察などの任務には不向きであり、

さらにF82が複座式だったことも、長時間の偵察任務や夜間任務ではパイロット同士がカバーし合える利点として働いたという。

 

 

なお、その航続性能を活かして、

「ベティ・ジョー号(Betty Jo、P-82Bの44-65168号機)」

という個体がレシプロ機による無着陸飛行記録に挑戦し、

「14時間32分かけ、ホノルルからニューヨークまで8,129 kmを飛び続ける」

という世界記録を達成。

 

この記録は、F82(F82)以上の航続距離を持つ新型レシプロ機が開発されることはまずないであろうことから、今も・・・そして今後も破られることはないだろう。

 

あれ?普通に成功作じゃん!

 

 

「P51」あとがき

筆者が大戦レシプロ機を好きになったきっかけとして、やはり「P51」の存在は早い段階で語りたいと思っていたのだが。

 

しかし実際にこの機体の生い立ちや発展を調べると、子供の頃によく理解していなかった・・・またはスルーしていた面白い事実が次々と明らかになって、調べていて楽しい飛行機であった。

 

 

特に、P51はそもそも「英国に送るP40の代替品」程度のポジションで開発がスタートされたのは面白い事実だと思う。

 

 

また、設計者はアメリカやイギリスにとって敵国のドイツ出身であるシュミードが担当し、エンジンはもとはイギリス製のマーリンエンジン。

 

 

いわばP51という機体は、欧米をまたいだ不思議な縁と偶然が生み出した「最優秀レシプロ戦闘機」であり、何かボタンの掛け間違いがあれば存在しなかったかも知れない。

 

 

その見た目と、生い立ちのミステリアスさは、今なお筆者だけでなく世界中の航空ファンを魅了している。

 

なお、トム=クルーズが自家用のP51Dを所持して、飛ばすこともできるという逸話は有名である。

 

 

筆者にとっても一生涯の趣味を与えてくれたこの機体に、死ぬ前に一度でいいからイベントで乗ってみたいなぁ・・・などと思ったり思わなかったり。

 

 

その他

無料オンラインフラシムである「Warthunder」などでも当然のごとく登場し、有志のユーザースキンも多数作られており、SBモードで飛ばすだけでもなかなか良いものだ。

 

まだゲームのP51Dが弱っちくて不人気だった時代、なんとか僅かな長所を生かして飛ばしまくり、1ミッションで6キル0デスとかを達成したのはいい思い出である(笑)

 

他にも、DCSやIL2BoS(GreatBattle)なども含めてこの機体を飛ばせるゲームはたくさんある。

 

どこかの鯖でお会いしたならば、是非一緒にP51を飛ばしてみましょう。

 

 

ではでは、最後までお読みいただきありがとうございました。

ハンス・ドルテンマン(Hans Dortenmann):Fw190D-9を駆った「本物の」エース

 

この人のことは、前々からずっと、ずーーーーっと書きたいと思っていた。

 

 

なんせ彼は筆者の一番好きな機体の一つである「フォッケウルフ:ドーラ9(Fw190D-9)」に乗っていたエースである。

 

 

しかし、日本人には悲しいほどマイナーな人物であることも事実・・・っ!

 

 

彼の活躍を記した日本語ブログはどんどん消滅しつつある危機感もあるし、「ハンス・ドルテンマン」の名が出てくるサイトといえば、基本は海外サイトか、せいぜいプラモの塗装例で彼の名前と業績がほんの少し紹介される程度ではないだろうか。

 

 

ハンス・ドルテンマンは、ドイツ空軍のパイロットとして終戦まで生き残り、最終的に39機の撃墜数を記録している。

 

 

エースパイロットの基準は「5機の撃墜」だし、彼も十分立派に「エース」を名乗れる人物ではあるのだが、なにぶんドイツには撃墜200機、300機みたいなスーパーエースがおり、100機超え程度なら割とたくさんいるという修羅の国

 

 

なので彼の撃墜数は、ドイツ空軍のスコアとしてはハッキリ言って平凡そのものかも知れない。

 

 

だが敢えて・・・敢えて言おう。

 

 

この「ハンス・ドルテンマン」こそは、

末期ドイツ空軍において「数少ない」、

そして「本物の」エースパイロットの一人であったと・・・!

 

 

 

ハンス・ドルテンマンの主な活躍

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Hans_Dortenmann.jpgより。ハンス・ドルテンマンの写真。ヒゲをたくわえており、なかなかダンディーなオジサマである。※なお当時20代前半)

 

 

さて、それではまず全盛期のイチロー構文的な感じで、この「ハンス・ドルテンマン」の凄さをまとめてみよう。

 

 

  • 彼はもともと歩兵であり、空軍パイロットとして東部戦線に送られたのは戦局が完全に不利になった時期から。それでもバシバシ戦果を挙げる天才。
  • Fw190A型に乗っていた東部戦線時代、敵機との接触事故で死にかけたことはあるが、こちらでもほぼ撃墜されることなく15機の撃墜を記録。
  • Fw190D-9型に乗り換えてからは一度も被撃墜なし。ずっと同じ愛機(製造番号W/nr210003)で終戦まで戦い抜く。
  • 撃墜スコア38機のうち、半分は西部戦線。特に「ドーラ9」に乗り換えてからの戦果はかのP51を6機を含む18機であり、これは同機種に乗ったエースの中ではトップ。
  • 「P51キラー」であると同時に「テンペストキラー」としても恐れられていたとされる。(JG26の元隊長の証言)
  • ロベルト・ヴァイスをはじめ多くのパイロットが戦死し、JG54が壊滅したきっかけとなった1944年末~年明けの戦いでもしぶとく生き残り、JG26へ転属。終戦まで常に出撃して戦果を挙げる。
  • 無謀な命令を無視して軍法会議にかけられるが、事情を察した上層部から評価され、かえって昇進。
  • Bf109部隊の交戦に巻き込まれ、上下を敵機に囲まれるも、僚機とともに直下のP51編隊に奇襲を仕掛けて撃墜・もちろん生き残る。
  • 僚機が自分を認識しやすいよう垂直尾翼を黄色に塗る、また部下のためなら軍令違反の汚名を被ることも辞さない、頼れる隊長。
  • 敵機は目いっぱい近づいての射撃で撃ち落とす大胆不敵さ、指揮官としては即断即決、慎重さをも兼ね備えた男。
  • ホーカーテンペストのエースであるピエール・クロステルマンの自著にも彼らしきパイロットが登場。クロステルマンに奇襲とエネルギー戦を仕掛けて手玉に取り、これを撃墜。(クロステルマンの語った敵機の特徴などから彼の可能性が最も高い)
  • 敗戦後は、終戦まで戦い抜いた愛機を処分してキャリアを終える。
  • 戦後は起業家へ転身。第二の人生を歩む。

 

ソースは以下の翻訳サイト。一応海外サイトなども読んだけど、どこだったかは忘れた。こちらは何分昔のサイトでいつ消えるか分からないので注意。

matsumat.web.fc2.com

 

 

・・・と、(ドイツのトップエース達に比べて)撃墜数こそ少ないものの、その経歴や事績を考えると。

 

 

ドルテンマンはかなり優れた空戦センス、そして抜群の判断力・生存能力の持ち主であり、活躍時期が遅かったとはいえその才能はドイツ軍のトップエース達にも引けは取らなかったのではないだろうか。

 

 

Fw190D-9「真の」エース

特に、個人的には

  • 終戦間際の、空に飛びあがれば血眼になって残党狩りをしている連合軍機に襲われ、まともなパイロットなら生き残ることすら難しい状況下で」
  • 「昨今、実態がイマイチ不明とされることも多いFw190D-9を駆り、18機の撃墜を挙げた」

というところが筆者のイチオシポイントである。

 

 

 

「ドーラ9に乗ったエースは誰か?」という問いを日本人に振ると、皆は誰を思い浮かべるだろうか。

 

多くの人は「JV44オウム中隊で、赤腹ドーラに乗ったハインツ・ザクセンベルク」だとか、あるいは有名な200機超えエースである「ゲルハルト・バルクホルンなどを思い浮かべることだろう。

 

また、ちょっとひねくれた人は、ちょっとだけD-9への搭乗経験のある「ルーデル閣下」を挙げるかもしれない。

 

 

 

だが、そういう人は何も分かってない。

分かっていないのだ。

 

 

 

彼らが素晴らしいパイロットであることは否定しないが、彼らは「真のドーラ・エース」ではない。

 

 

彼らが挙げた戦果は、ほとんどが他機種(Bf109やFw190A型)によるもの、かつまだドイツ空軍が元気だった第二次大戦前半に記録されたものである。

 

 

またこれはドイツ軍のエースの多くに言えることだが・・・

 

出てくる敵機の数も性能差も不利ではなかった時期であればバリバリ戦果を挙げていた彼らも、大戦末期になるとどうにも伸び悩む・・・というケースがかなり多い。

(特に、東部戦線ではパイロットの練度も機材も微妙だったソ連空軍相手に稼ぎまくったパイロットも多かっただろう。)

 

実際、彼らはフォッケD-9に乗り換えてもほとんど、あるいは全くと言ってよいほど戦果を挙げていない。

 

 

だが、ドルテンマンは

「ドーラ9のみで18機の戦果を記録し」

「敵はP51やらスピット後期型やらテンペストやら大戦末期の高性能機ばかり、しかも味方の数も練度も基本不利な状況で」

「被撃墜ゼロのまま生き残った」

 

という、「ドーラ9の」「真のエース」であり・・・

大げさに言えば「ドイツ空軍最後のエース」と言っても過言ではない人物なのである。

※実際、彼はJG26で騎士鉄十字章を受けた最後のパイロットとなった。

 

 

 

・・・だが悲しいかな。

ほんっっっとに、彼は日本での知名度がない・・・。

 

 

 

アニメ「ストライクウィッチーズ」には、バルクホルンをモデルにした人物が「Fw190D-6」というユニットを乗り回していたが、

その役には本来ドルテンマンが配置されるべきなのだとすら思う。(力説)

 

 

実は陸軍出身だったドルテンマン

さて、彼について語りたいことは色々あるのだが・・・

 

 

まずは、彼のキャリアの中で非常に特殊な経歴を紹介しておこう。

 

 

面白いことに、もともとドルテンマンは陸軍所属

第215歩兵師団第390歩兵連隊第1中隊に配属されたごく平凡な一歩兵だった。

 

 

彼がそのまま歩兵として戦っていたら、どこかの土地で名も残らない最期を遂げていたかも知れない。

 

が、ドルテンマンは休暇中の狩猟で事故ったせいで走り回るのが困難になり、まだ足の負担の少ない空軍パイロットに転属したおかげでエースとして名を挙げた。

 

まさに「人間万事塞翁が馬」を体現したような男である・・・。

 

 

彼がパイロットになった当初は20代前半であったが、少年時代から訓練を受けて空で過ごしたようなエリートパイロットからすれば「新参者」であった。

 

妄想だが、中には「陸軍上がりが」と彼をバカにしていた人間がいてもおかしくはない。

 

が、彼は天才だった。

 

あるいは、家業の狩りが空戦と似通っていて、その才能を自然と磨いたのであろうか。

 

パイロットになってからのドルテンマンは、100機超えのエースですらバタバタと死んでいく大戦末期のVERY HARDモードと化したドイツ空軍において大奮戦するのである。

 

 

東部戦線でLa5やYak9と戦う

ドルテンマンが戦闘機乗りとして最初に戦ったのは東部戦線。

ソ連軍が相手であった。

 

当時はFw190A型に乗っていた彼がパイロットとして戦地に赴いた1943年は、既にドイツがスターリングラードの戦いに敗北し、ずるずると後退していた時期。

 

某祖国の同志の軍人大粛清のせいで当初は「弱い」とドイツ兵に馬鹿にされていたソ連軍だが、冬将軍の到来やチョビヒゲ総統閣下の作戦ミス、ソ連軍のスターリングラードに追い詰められてからの共産主義パワー驚異的な粘りもあってドイツ軍を苦戦させていた。

 

当初はドイツ兵に「ポーランド軍より弱い」とすら言われたほどヘッポコだった彼らも次第に戦慣れし、ついにスターリングラードからドイツを撤退させることに成功したのだ。

 

また、開戦当初は粗悪品だらけだった※とされるソ連空軍も、Yak9やLa5などの高性能な新型国産戦闘機を開発、次々と戦場に送り出し始めていた頃だった。

※米英ではイマイチと評されたP39が、大戦初期にまともな機体のなかったソ連で大活躍したのは有名な話

 

 

ドルテンマンが最初に撃墜したのはソ連のLa5であったが、空戦中に敵機と接触して片翼端を失い、命からがら不時着するという経験もしている。惑星warthunderの日常

 

 

だがその後はめきめきと頭角を表し、東部戦線だけでも1944年までに15機を撃墜。

 

とはいえ、個々のパイロットがいくら頑張ったところで悪化する戦況はどうにもならず、のちにJG54は戦況の悪化により西部戦線で対米英軍に回されることになる。

https://www.cranstonfinearts.com/aces.php?PilotID=1385

 

そこでさらにP51一機を含む6機の撃墜を記録。

 

低空に特化したソ連機より高高度性能に優れ、東部戦線での戦い方が通用しない米英機相手でも即座に対応して渡り合える実力を、ドルテンマンは示したのである。

 

 

愛機(W/nr210003)との出会い

(画像はhttps://www.asisbiz.com/より引用。:JG54時代、Fw190D-9の操縦席に乗り込むドルテンマン。先の写真のダンディーな感じとは打って変わって、どこかすっとぼけたような愛嬌ある表情である。

全体は見えないが、A型にはない操縦席側面の補強板などの特徴から多分D型だろう。後部のスライド式キャノピーも、丸っこい「ガーランド・ハウベ」と呼ばれるタイプにアップグレードされているのが分かる。(D-9はA型と同じ直線的な通常型キャノピーを搭載したものもある)

 

 

ドルテンマンが在籍していたJG54は、A型後継機もTa152も一向に完成しないもんで半ばやっつけで製造された新型機であるFw190D-9を受領した最初の部隊であった。

 

ドルテンマンの愛機は製造番号W/nr210003の、D9の中でもかなり初期に生産された型であったという。

(初期生産スロットなので、水メタノールによる出力増強装置であるMW50すら搭載されていなかった可能性もある。それはそれで凄いが・・・)

 

彼がドーラ9で最初に記録した撃墜はおそらく11月2日(D9の配備が1944年9月)であり、相手はB17であった。

 

その直後、11月6日には早速P51を撃墜している。(P51といっても色々型があるが、この時代ならほとんどがマーリンエンジン搭載により性能全盛期を迎えたB、C、D型であろう。)

 

 

Fw190D-9は、様々な研究により最近では「性能はA型より多少上がったが、同時代の連合軍機に比べて劣る」という評価が定着しつつある。

 

中には、「余った水冷エンジンを突っ込んだだけの機体」などと、かなり強い調子でコキ下ろす人もいた。

 

 

しかし、ドルテンマンはその微妙なフォッケウルフD-9型で「最優秀機」ことP51を5機も撃墜しているのはなかなか興味深い。

 

「P51キラー」でもあったドルテンマンの印象的な戦いの一つが、米軍にとっては「最も大きな空戦の勝利の一つ」とされる1945 年 3 月 19 日の空戦であろう。

参考:

https://www.starduststudios.com/hans-dortenmann.html

 

この戦いでは、パトロールから帰還中、友軍であるJG27のメッサーシュミットBf109と、米陸軍航空隊第78戦闘団のP51との戦闘に巻き込まれてしまう。

 

ドルテンマン達はP51によって上下を敵に囲まれるも、僚機とともに下にいるP51の一機に突撃、彼が得意としたギリギリまで近づいてからの近接射撃で見事撃墜する様子が記録されている。

 

さらにこの日、ドルテンマンはこの戦果も含めてP51を2機撃墜している。

 

※なおこの空戦の結果自体は散々で、ドイツ側の記録でFw190を4機、Bf109を14機失うという大敗を喫している。多勢に無勢・・・。

 

 

日本軍でも、性能(特に当時の空戦では最重要な速度性能)の劣る機体で大戦末期の米軍機を相手に奮戦したパイロットは多数存在する。

 

だが、速度差がそんなにないF6Fならともかく、日本パイロットが苦手とする高速戦を得意としたP-51を5機も撃墜したパイロットはなかなかいない。

 

このドルテンマンに匹敵、ないし凌駕する「マスタングキラー」と言えば、「四式戦疾風」に乗り、「赤子の手を捻るがごとく」P51を撃墜しまくった若松幸禧氏(諸説あるが、P51を8機以上撃墜したとも)くらいではなかろうか。

 

 

また、枢軸国にとって「分かりやすい強敵」としてP51を比較対象に挙げたが、ドルテンマンはその他、P47や英国のスピットファイア、ホーカーテンペストなど、いずれも劣らぬ連合の主力戦闘機を多数落としている。

 

終戦間際にはソ連も東からドイツ本土に迫ってきたが、そのついでとばかりに「顎のないYakには気を付けろ」とドイツパイロットに恐れられたYak3を撃墜している。

(惑星warthunderだと恐ろしい上昇力でドイツ機の急上昇にもついてくるやべー奴)

 

 

昔の書籍やwikiなどには「D-9型は、熟練パイロットが乗れば連合軍の最新鋭機とも互角に渡り合えた」と書かれているが、その評価の半分くらいはこのドルテンマンの大活躍によるものかも知れない。

 

バルクホルンなどの有名エースもD-9に乗ったことがあるが、慣熟訓練の不足や本人の疲労などもあり、撃墜記録が全くないケースが大半でガッカリすることが多い。

 

 

しかし、ドルテンマンは正真正銘、Fw190DD-9に乗って連合軍の最新鋭戦闘機と立派に渡り合って見せたのだ。

A型に乗ってた時の戦果も大概やべぇのだが。

 

 

ドルテンマン、ヴァルター・ノヴォトニーの最期に立ち会う

彼の愛機だったFw190D-9は、ジェット戦闘機Me262の直掩に用いられたことでも知られる。

 

飛び上がって速度が乗ればほぼ無敵だったMe262だが、エンジン性能の限界で加速が弱く、離着陸時を狙われればひとたまりもない。

 

そこで離着陸をカバーする戦闘機が必要だったわけである。

護衛戦闘機が必要な戦闘機ってどこかで聞いたな・・・ね?駆逐機さん!

 

 

実際、当時JG54にいたドルテンマンもそういった任務に出撃したことは何度かあった。

 

 

ある日、筆者が実家にあるMe262の本を久々に読んでいると、たまたま「ドルテンマン」の名前を見つける機会があった。なんというめぐり合わせ!

 

 

するとドルテンマンは、ドイツ空軍のトップエースの一人で258機を撃墜した「ヴァルター・ノヴォトニー」の最期に立ち会っていた一人であったことが判明した。(JG54の先輩なので当然ではあるが)

https://www.yodobashi.com/product/100000009001221575/

※表紙は実家にある本と違うが、タイトル的には多分これ。

 

 

ただし、その時はノヴォトニーから地上待機を命じられており、出撃はしていなかった。ドルテンマンはD-9のコクピットで彼の最期の無線を聞いたのみであったという。

 

ちなみに、その日は空軍戦闘機隊総監であるアドルフ・ガーランドも基地へ訪れており、そういった中での不幸だった。

 

 

JG54の危機:暗黒の金曜日

ドルテンマンは決して、楽な戦い&有利な状況で運よく生き残っていたわけではない。

(そもそもどのドイツパイロットにとってもそんな戦況ではなかっただろうが)

 

彼は最初JG54に在籍していたが、1944年末からの「ラインの護り」作戦で同部隊が壊滅するなどの修羅場をいくつも潜り抜けてきているし、JG26に移籍したのも、同作戦が失敗に終わり、JG54が壊滅してJG26に統合されたからだ。

 

 

なお、彼はJG54時代、この戦いの中で起こした「命令違反」により、危うく処罰されそうになったという逸話が残る。

 

 

時は1944 年 12 月 29 日・・・。

 

この日の戦いは、ポーランド戦役、バトルオブブリテン、そして独ソ戦初期から戦い続けた歴戦揃いの「JG54」が、一度に12名もの貴重なパイロットを失い、「暗黒の金曜日」と評されるほどの過酷な戦いだった。

※なお、この日は「ラインの護り」作戦の真っただ中で、この数日後の元旦には無謀な「ボーデンプラッテ作戦」でさらに多くのパイロットを失うことになる。

 

 

 

以下、筆者の微妙な英語力(とGoogle先生の翻訳力)から大まかにまとめた経緯である。

http://luftwaffeinprofile.se/JG%2054%20Black%20Day.html

 

この日はJG26との合同作戦であったが、即席の合同作戦で指揮系統が混乱したのか、高高度に敵がウヨウヨいる空域に、あろうことか不利な低空で戦闘機隊を小分けに逐次投入して低空の敵戦闘爆撃機を攻撃するという、とんでもなく無謀な作戦が決行された。

 

 

むろん、本来は高高度からの一撃離脱が得意なドイツ軍は十分に力を発揮できず、非常に危険が大きい。

 

案の定、その上空では高高度で待ち構える英空軍のスピットファイアが網を張っており、低空の戦闘爆撃機(タイフーン)は半ば囮も兼ねている。

 

低空侵入したJG54の戦闘機隊は、待ち伏せしていたスピットファイアによって各個撃破されていき、無線から流れてくる声は阿鼻叫喚であったという。

 

 

ドルテンマン達にも「第三波として戦闘空域へ向かうように」との命令があった。

※この命令を下した上官とその部隊は、戦闘空域をウロウロと旋回していたところをスピットファイア隊の奇襲をモロに受けて壊滅させられている。

 

 

だが、ドルテンマンは断片的に流れてくる無線などから情報を分析し、

 

  • 「そこへ向かった味方はことごとく返り討ちに遭っている」
  • 「よって、ノコノコと自分たちが突っ込めばまた敵に待ち伏せされて、同じ轍を踏む。命令に従えば自殺行為になるのは目に見えている」

 

・・・と判断。

 

 

結果、命令とは逆に高度を取ることを決断する。

 

彼の懸念通り、先に交戦した部隊はことごとく壊滅しており、目標地点では敵機が上空で網を張って待ち構えていたのだった。

 

 

彼の編隊は同高度域で10機以上のスピットファイアに遭遇。最終的にドルテンマンの隊にも2機の被害こそあったが、ドルテンマン自身はスピットファイア1機を撃墜、彼の僚機の戦果も合わせると合計3機を撃墜して何とか生還する。

 

この日のJG54の戦闘で、唯一撃墜数が被撃墜数を上回り、かつ損害を最小限に抑えたのは彼の隊のみであった。

 

しかし彼が先に犯した命令無視、そして結果的に彼から見捨てられる形となった部隊からの訴えによって、軍法会議になりかけたのである。

 

 

・・・だが、末期のドイツ空軍もこういった戦況を理解できないボンクラばかりではなかったらしい。

 

彼の判断のおかげで生き残れた僚機の証言もあったのか、はたまた彼に目をかけていた上官がいたのか。

 

ドルテンマンはかえって戦死したロベルト・ヴァイスに代わりIII./JG 54 の代理隊長(?)に任命される。

 

 

しかし、ドイツ軍最後の攻勢ともいえる「ラインの護り(バルジの戦い)」と呼ばれるこの一連の戦いで、JG54は先に述べた通りロベルト・ヴァイスはじめ多くのベテランが戦死してしまう。

 

特に「100機超えエース」の一人でもあったヴァイスは、ノヴォトニー亡き後のJG54の大黒柱ともいうべき人物であった。

 

 

多くのパイロットを失い、部隊を維持できなくなったJG54の一部はのちにJG26に吸収されることとなるのだが、それはまた別のお話・・・。

 

 

だが、いずれにせよドルテンマンはこういった過酷な戦いでも生き残る技量(しれっと撃墜スコアも伸ばしてるし)、そして、たとえ命令違反になろうとも最善の判断を下せる決断力と度胸の持ち主であったと言えるだろう。

 

 

ピエール・クロステルマンとの対決に関する伝説

ソースは同じく以下の翻訳サイトより。

matsumat.web.fc2.com

 

 

もう一つ・・・諸説はあるものの、彼に関する逸話として、

「1945年4月、フランス人のテンペストエースであるピエール・クロステルマンと対決し、これに勝利した」

というものが存在する。

 

 

ドルテンマンが1970年代に亡くなってしまったために彼自身のはっきりした証言が得られなかったのは残念だが、クロステルマンの自伝・『LE GRAND CIRQUE』(邦題・『撃墜王』)に彼らしきパイロットが登場し、クロステルマンに一杯食わせた・・・という内容がある。

 

 

時は1945年4月21日・・・※

※件の翻訳サイトにおけるクロステルマン氏の日記では日付が「22日」となっているが、これは生還後に書いた日記であるためであろう。

 

その日、Fw190D-9による奇襲を受けて僚機を撃墜されたクロステルマンは、怒り狂ってそのD-9を追いかけるが、そのD-9のパイロットはダイブと急上昇を絡めた巧みなエネルギー戦でクロステルマンを翻弄。

 

急な引き起こしで敵機を見失ったクロステルマン機の背後に回り込んでこれを撃墜し、不時着して機外に降りたクロステルマンをそれ以上攻撃することもなく、別れの敬礼に翼を振って飛び去った・・・という。

 

そして、クロステルマンはそのD-9の黄色に塗られた垂直尾翼と、渦巻き型のスピナーを目に焼き付けた・・・(一応、JG26時代のドルテンマン機の特徴と一致する)

 

・・・なんともクールな敵キャラではありませんか。

 

 

戦後はるか未来、1996年に戦中パイロットの交流会に参加したクロステルマンは、偶然JG26/Ⅶの隊長だったヴェルナー・モルヒ氏(原文ママ)と出会い、この時自分を撃墜したパイロットについて話した。

 

その結果、彼が語った機体の特徴などから3人の候補が見つかり、撃墜記録などとも照らし合わせた結果、その最有力候補が同じく当時JG26にいたドルテンマンだったのだ。

 

※クロステルマンの自伝によると、その日ドルテンマンは「スピットファイア」の撃墜を報告している(これは筆者もドルテンマンの撃墜記録を漁って裏は取った)。

だが、クロステルマンは「自分の乗機であるテンペストスピットファイアは同じ楕円型の翼を持っている(戦闘中なら誤認は十分あり得る)」と、推察を述べている。

 

 

むろん他にも候補者が2名がいるので、クロステルマンを撃墜したFw190D-9は彼ではなかった可能性もあるが、筆者は分かる範囲でこの「対決」の信憑性を調べてみた。

 

↓こんな地図もわざわざ引っ張り出して。(Google先生あざっす!)

 

http://matsumat.web.fc2.com/hero00/page007.htm

撃墜王』によると、クロステルマンは撃墜されたその日オスナブリュックハンブルク間」を飛行しており、

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Dortenmann

によると、4/21の戦闘でドルテンマンは確かにスピットファイア」1機を撃墜したとされる。

そして、その撃墜を記録した場所はハンブルクのちょっと南にある「ブーフホルツ(Buchholz)」であり、場所的にはクロステルマンが当時飛んでいた場所と辻褄は合う。

 

 

また、『撃墜王』にある通り、

 

「面白いのは、その日ドルテンマンが撃墜したのはテンペストではなく2機(ドルテンマンのwikiでは1機)のスピットファイアXIVだと報告していることである」

「両機は同じ楕円形の主翼を持っている(=見間違えの可能性もありうる)」

 

・・・というクロステルマンの推察とも矛盾しない。

 

↑図のように、ゴツいラジエターが特徴のテンペストと、スマートなスピットファイアは一見似ても似つかないが、上から見ると確かに見間違える可能性はありそうである。

 

また、スピットファイアには翼端を切り詰めた(厳密にはパーツ交換だが)タイプも存在するのだが、そちらはさらにテンペストの翼形と似ている。

※むしろそちらと見間違えた可能性もある。

 

 

なお、当日のドルテンマンの公認撃墜記録がクロステルマンの著書の記述と食い違う部分もあるので、正直これ以上のことは筆者も断言はできない。

 

 

だが、諸々の情報を総合すると、ドルテンマンvsクロステルマンという、「大戦末期のエース同士の対決」は実際にあったのではないか・・・と思うのだが、いかが思われるであろうか。

 

 

長生きしたクロステルマン氏とは対照的に、ドルテンマンは1973年に亡くなってしまったのだが、この二人が直接出会っていればどんな会話をしたのだろう・・・と考えずにはいられない。

 

 

戦後は起業家へ転身するが・・・

ドルテンマンは敗戦の日、長く戦った(といってもD9の配備は1944年9月なので、わずか半年ほどの付き合いだが)乗機を自ら処分※して敵軍に降伏。

※鹵獲を避けるため、ガソリン等をかけて焼却するのが一般的。

 

 

彼の愛機であるFw190D-9・製造番号W/nr210003号機は、こうして敵の手にかかることのないまま主の手で生涯を終えた。

 

 

戦後、ドルテンマンは一時捕虜となったが、幸いすぐに釈放されたようだ。

 

戦後の彼は土木建築を学んで会社を設立し、起業家として第二の人生をスタートさせることになる。

※彼に限らず、戦闘機パイロットの生き残りというのは身体もメンタルも強靭で、頭も良い連中なので起業家に転身するケースは割とある。

 

 

1950年代、「ライン川の奇跡」と呼ばれる好景気に上手く乗ったドルテンマンの事業は好調だった。

 

しかし70年代になると逆に不況に陥り、一転彼は追い詰められることになってしまう。

 

1973年4月1日、彼はハイデルベルクで自殺してしまう。享年51歳だった。

 

戦中、颯爽とFw190D-9を駆り、どんな危機でも生き残って見せた彼だったが、さすがに疲れてしまったのだろうか。

 

あるいはシンプルな命の奪い合いよりも、経済戦争の方が過酷だったのだろうか・・・

 

 

ハンスには遺児のアクセル(Axel)氏がおり、彼が父の遺品として受け継いだ戦時中の写真や日記の内容が知人のブロガーさんの手でいくつか公開されている。

 

この隠れたエースパイロットの事績を、後世に伝えてくれた彼らに感謝である。

 

www.rlm.at

 

そして、”ドイツ空軍最後のエース”であるハンス・ドルテンマンに敬礼を。

筆者は、生涯彼の活躍を忘れることはないであろう。

 

 

その他、ゲームなどの小話

ハンス・ドルテンマンは日本での知名度こそないが、その乗機はゲーム作品などではしばしば再現されている。

 

日本人モデラーによるプラモの作例でも、彼の塗装が使われることが多い。

 

 

またゲーム作品の中ではWarthunder等にも、ユーザースキンとして彼の愛機を模した塗装はいくつも作られている。

 

中でも、ドイツ機を中心に数々のハイクオリティなスキンを作っておられる「PaganiZonda」氏の作品がおすすめだ。

 

もちろん筆者もDLして今も時々使っている。(ドーラは他にも魅力的なスキンが多くて目移りしちまうぜ)

https://live.warthunder.com/post/283688/en/

 

 

また、最新のWWⅡフラシムである「IL2Bos」にも待望のドーラ9が実装され、ユーザースキンも有志の手によりどんどん作られている。

 

公式スキンにもJG26時代のドルテンマン機のスキンがあるほか、史実通りハーケンクロイツ付きのユーザー製作のスキンもあるぞ。

https://forum.il2sturmovik.com/topic/44383-skin-4k-fw-190-d9/?do=findComment&comment=848708

 

惑星warthunderの、蒼の英雄D12をちょちょいといじった使い回しモデルとは比較にならない、BOSの格好いいドーラをドルテンマン機塗装で飛ぶのはなかなか乙なものである。

※当方のツイ垢(https://twitter.com/kurovidar1945)でも使わせてもらっている「IL2BoS」のゲーム画像。もちろんこれはフォッケD-9ドルテンマン機の塗装である。

D-9はこのアングルが一番映えると思う。

 

 

古い作品では、IL2 1946でももちろん彼のスキンはあるし、まだ配布されているサイトも残っているはずだ。

 

 

その他、DCSにもD-9は実装されているのだが、IL2よりもややのっぺりとしたモデリングや、主翼の上反角が若干足りないように感じてあまり好きではなかったりする。

全日本フォッケ協会認定ソムリエ(自称)の感想